2011年12月20日火曜日

御父様との本質的な繋がりを考える

私達は今地上に生きることで、生きた御父様と同じ空間、同じ時間を共有しているから、その感覚的事実をもって満足しがちだけれど、感覚的にだけ受け取った事柄はこの地上を去る時にその大半を失ってしまう。正しくも確かな御父様との出会いは感覚的地上的なものではなく、内的霊的に出会い、内的霊的な関わりをもって初めて永遠であり絶対である本質に足を踏み入れる。多くの食口達はこう思っているだろう。私が地上を去る前に先ず御父様が地上を去られる。御父様が地上を去られた後、私は御父様とどう関わっていくのだろうか。この思いは御父様との本質の出会いに足を踏み入れた者の思いとして正しいだろうか。それは感覚的地上的な認識に重心を置いている者の思いであって、そういう者達の内的霊的な思いはどうかと言うと、未だ御父様に明確な目覚めた意識で出会ってすらいない、内的霊的にやっと目覚めようとしていると言うことができる。御父様がどれほど教本教材を強調され、訓読を重要視され、その御本を愛しもし侍りもされるのは、み言葉を通してしか内的霊的に御父様に出会えないし、み言葉を通してしか内的霊的に関われない。この肉体を失っても、この思考や感情を司る心魂を失っても、それでも残るものしか最終的に霊界に持ち込めるものはない。御父母様の御聖婚式を一年先に控えている。私が内的霊的にどんな意識段階でその日その時を迎えようとしているのか。ゲッセマネで眠りこけた弟子たちと同じ過ちを犯さないように、せめて意識の目覚めを果たして迎えなければ一生どころか未来永劫の悔いとして残るかも知れない。み言葉によらなければ私達は生まれ変われない。み言葉によらなければ御父様の骨髄の中に入っていけない。み言葉によらなければ芽継ぎ(接ぎ木)が芽継ぎとして働かない。み言葉を愛し、み言葉に侍り、意識革命、心情革命、そして良心革命を私の心魂世界で果たしていく。それでこそ私の中で御父様が生きて働いておられると断言できる。

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