2011年12月5日月曜日

今日の想い 378

大したイベントも起こらず、大した感情も味わうことも無く、毎日が変わりなく流れていくとしたら、それは私という精神存在の下降を意味している。惰性的な毎日は淀んで濁り堕落的な温床となる。精神存在として一期一会である一日一日を生きるとは、復帰もし創造もする生きた証しを記念碑的に立てていく義務がある。一日を終えて床に就くとき、報告祈祷のその場で何を報告するのか。一日を与えられて報告する収穫を何かひとつでも復帰してその場に臨むべきだ。それがないなら床に就くべきではないだろう。重いマナバックを抱えて一日中一軒一軒訪問しながら、終日近くになるとひとつの実績も無く焦ってくる。外的条件的な当時の歩みを、今は内的霊的実体的に心情としての実績を追求しなければならない。外的なものが内的なものに変わるなら、焦る気持ちも実績の無い不甲斐なさも忘れ去られるのではなく、外的なもの以上に重要視する私達となる必要がある。そうでないならノルマを追求され苦労した当時の歩みが条件となってはおらず、心情を復帰していないと言うことだ。等閑(なおざり)な気持ちで感謝を述べても、感謝の言葉に値しない気持ちを感謝の言葉で包むなら、神様を侮辱していることになる。それよりはかえって隠さずに恨みの言葉を伝えたほうが正直でいい。御父様は私たちに対して正直であるように教えておられる。内的霊的なものがどれだけ重要であるかがわからない為、祈祷の重要性もわからない。祈祷のその場は神様の前にあって厳粛な場であり、私の良心に鑑みて裁かれる場であり、先祖達が集まって追求もする恐ろしい場であることを知らないでいる。

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