2011年12月7日水曜日

畏れを失った日本

み言葉を聞いたことがない者達だけでなく、み言葉を一度は聞いて受け入れた者達の中にも御父様を恐れない者もいる。恐れるという表記は、強者に対する弱者の避けて逃げる負の印象が色濃くあるので、畏敬の意味での畏れるという言葉を使わないと誤解されやすいかも知れない。しかし恐れと畏れの違いが今の日本人にわかるだろうか。日本人の中に、畏敬の感情といったものを理解せず、畏敬という言葉を捨ててしまったのはいつ頃からだろうか。霊界にははっきりとした位階があるので、この畏敬の感情や畏怖の念を理解できない者は霊界の実相を捉えられない。み言葉を通して霊界の存在を信じる者であっても、地上と同じ別の空間が存在するくらいの認識に留まり、霊界の実相を捉え実感するには至らない。自分には霊感があるという者でも極めて平面的一面的であり、臥して地上面だけを見ながら暮らしているようなもので、そんな下手な霊感はかえって誤った霊界認識を持つ為にない方がいい。聖書が霊的な言葉であるように、論理的に書かれていても原理講論も霊的な言葉だ。それを平面的一面的にだけ捉えてわかったようなつもりでいる。その深みを尋ねようとしない者、即ち畏敬の感情や畏怖の念を失った者達はその価値を認識できない。よって言葉を別様に、自分の理解に合わせて捉え、あらゆる的外れな批判が飛び出してくる。日本には、様々な宗教とは言えない宗教も含めて宗教は多々あるが、宗教人口は少ない。それは進化論を始めとする唯物主義が席巻して、宗教は弱い者、理性のない者が関わる如何わしいものだと捉えており、宗教そのものを見下しているからだ。物質的な繁栄に押されて畏敬の感情、畏怖の念を捨ててしまった。徹底して打たれなければこの民族この国は目が覚めないのかと、悔しい思いは何とも仕様がないが、日本食口が十人の正しい者となって今日まで護られてきた。しかし御父様が入国できるかどうかが決め手であり、D-DAYを決定された以上日本に対する摂理の延長はないだろう。み言葉を一度は受け入れたが御父様を畏れない者達はこう言う。「日本は滅びる滅びると言いながら未だに滅びていない。そうやって脅しながら巻き上げているのが教会だ。」と、、。滅びるのをこの目で見たいかのような言動は、死刑囚が死刑になるその時を待ち焦がれてでもいるかのように、その無知さと他人事に目も当てられない。

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