2011年12月29日木曜日

大雪の故郷を想って、

日本は寒波の影響か日本海側は大雪だ。去年の冬が大雪だったので今年は暖冬に落ち着くのかと思いきや、そうでもないらしい。ネットの流すニュースで情報を得ると直ぐにも田舎に電話した。ファックスに転送される直前で呼び出し音が止まり、やっと親父が出てきて気の抜けた声で返事をした。様子を聞くと既に一メートルは積もり、まだ進行中だ。明日の朝までは止みそうにないらしい。西日本でありながら豪雪地帯並みに雪はよく降る。当地の人間は毎年のことで慣れていて、特に心配するでもなく、なるようになると暮らしているのだが、遠くにいると古い家が耐えられるかどうかの心配もさることながら、雪かきの重労働を年寄りに負わすことも心配だ。ここ四、五年積雪量は増してきたけれど、それまでは私が子供の時分と比べて随分少なくなっていた。昭和三十八年の豪雪の年は4メートルを越える積雪があったので、ここ数年積雪が増していったと言ってもその時の比ではない。家の心配や食料の心配が先に立つ大人は、後から後から降りてくる雪空を見上げて恨んだだろうが、子供は雪が大好きだ。雪が降り続くことを願ったし、家を被うほど雪が降り積もって欲しいと思った。勿論積雪の為の臨時休校を願ったわけでもあるが、、。雪化粧だとか、雪景色というような雪を情緒的に受け取れば、雪が内面を豊かにしてくれるけれど、積雪何メートルだとか大変な雪かきを思えば、雪はただの白い厄介物でしかない。私がどこに重心を置いて主体としての位置に立っているかで、客体はその顔を変える。子供の頃のような純真な気持ちに返ることも大切なのかも知れないが、私は大人に成長することで内面の豊かさは深みを増せるものだと思っている。子供の頃はただ情緒的に受け取っていたが、成長することで客体としての自然に対して内的に働きかけることができる。すなわち受け取るだけではなく与える。自然に対して与えて働きかける。自然の母性といえる愛を受け取るだけではなく、自然に対して主体である私から愛する。愛を与える。万物に対して、役に立つとか立たないとかの冷たい態度を当然のように取っていたが、これから全ての万物に対して私はどう愛していこうかという態度で接すれば、自然も万物もその顔を変え、閉ざしていた心を次第に開いて多くを語ってくれるはずだ。むかし聖フランシスコの映画、BROTHER SUN SISTER MOONを見に行ったことがある。その主題歌は強く印象に残っているが、映画そのものは退屈だとしか思わなかった。その頃は愛するという意味の只の一つも理解してはいなかった。この年になってやっと、自然を愛することに身を捧げた彼の想いが少しは理解できる。故郷の雪は私の多くの内的部分を育ててくれて、雪が祝福の象徴であることが私にはよくわかる。雪景色の故郷は暖かい。しかし、、それでも雪かきはやっぱり大変だ。

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