2011年12月28日水曜日

自由という翼

確かに人間は自由という翼を与えられている。しかし自由の意味するところを知らないように、翼として用いることを知らないでいる。感覚世界のあらゆる感覚的快楽を貪ることを、私に与えられた自由だと思っているけれど、それは自由の翼でも何でもなく、感覚世界のみに繋がれてがんじがらめにされているだけのことだ。霊的に見るなら、感覚世界に溺れて精神の高み、霊的高みを見失っている。私達が、アダムエバ問題を起こした兄弟を指して堕落してしまったと言ったり、離れた兄弟を指して落ちたと言うように、それは高みを目指して羽ばたいていた自らの翼を挫いたことを意味している。天使長ルーシェルの翼は、神様によって折られたのではなく自らの意志で翼を折った。神様がすぐそばに居られることに耐えきれず、自分で自分の翼を折って地に下ってしまった。目が開けて自由を享受できるとエバを誘い、霊的自由の翼を自ら折って地上の感覚享受へエバを抱えて引導した。天を羽ばたく龍だった天使長は、羽を折って地の蛇に身を落とした。本来の自由としての翼を奪われ、幻想である偽りの自由を抱えて、ルーシェルの子孫達は地上に満ちていった。真の御父様を地上に戴いた、自由という観点からの意味は、霊的自由の翼を取り戻すべく人類を本然の姿に生まれ変わらせる為だ。御父様の心情圏に人類が入っていって、その心情世界を飛び回る為には自由の翼が必要だ。十二の真珠門を超えて十二の心情世界を飛び回る。人は愛することで本来の自由を手に入れる。愛せないものを愛そうとし、自己中心の愛を犠牲にして為に生きることで、私を中心とした真の愛の心情世界を開拓しながら、霊的には本来の自由を取り返している。自由という翼を取り戻した霊界で、高ければどこまでも高く、深ければどこまでも深く、東西南北遥か彼方まで瞬時に移動しながら、神様の創造の御業を賛美し続ける。

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