2011年12月6日火曜日

良心についてさらに考えてみる

御父様が語られる良心を、道徳心と同じ扱いで認識すべきではないだろう。良心は神様が直接に働きかけられる部分であり、この世の一般的道徳に従う良心を指して言っておられるのではない。道徳心と良心(良神)の違いを見事に描いた聖書の個所がある。それはマルコ伝14章に出てくるベタニヤの女の話だ。ひとりの女が非常に高価なナルドの香油をイエス様の頭に注ぎかけた。人々は三百デナリ以上にもなる香油を売れば貧しい人達に施せるのにどうして無駄にするのかと言って女を咎めたが、イエス様は人々に対して、いつも一緒にはいない私に対して出来る限りの良いことをしたのにどうして女を困らせるのかと言われた。女は良心の声に従ったのであり、人々は女の行為を通常の道徳心をもって判断した。彼らの生活背景をしっかりとイメージしてこの情景を見なければならない。決して経済的に楽な状態ではなかったし、持ち合わせの殆どを施されながら活動しておられた。その状況でイエス様の周りの人々の女に対する咎めは至極当然であった。イエス様は、この女はあらかじめ葬りの用意をしてくれたのだと女の行動を説明されておられるが、おそらくこの女はそこまでの思慮を働かせての行為ではなかったはずだ。人々から、或いはイエス様からさえも咎められるであろう行動を敢えて取った。それは通常の道徳心に従ったのではなく、彼女の良心に従った。結果的に彼女の行為はよしとされたのであって、良しとされることを見越して行動したのではないと言うことだ。私達の歩みに於いても多くの局面でこう言った判断を迫られる。道徳心や常識で思慮すれば首を傾げざるを得ない事であっても、道徳や常識を超えた精神、良神に従うことを要求される局面がある。それは道徳や常識を無視しろというのではなく、天情に徹するのだと言って世間知らずの人情を無視する冷たい人間になるのではなく、それを犠牲にしたイサク献祭のような局面で判断を迫られる、良心の声に素直に従う私となることだ。私達は今、自分の良心をはっきりと認識し、そして良心の声に従う訓練を受けている。内部に難しい問題を抱えながら、道徳的常識的に行動すれば御父様の願いからずれかねない状況で、周りの声にではなく良心の声をはっきり聞いて従う私にならなければ、この試練を生きて通過することはできない。

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