2011年12月10日土曜日

今日の想い 379

師走とは言えないほど暖かい日が続いている。皆この暖かいうちにと思っているのか、クリスマスショッピングの買い物客で車が多い。日頃は運転しないペーパードライバー達が、必要に駆られて繰り出してくるので尚更道路は混雑する。前方ののろのろ運転の車の運転席に人らしきものが確認されないので、良く見てみたら、高齢のために身体が小さくなって縮こまったお婆さんが天を仰ぐように顎を上げ、辛うじて視線を前方のフロントガラスに確保して運転している。隣に車がいようがいまいが車線変更も右折も左折も思いのままで、周りの車は諦めて警笛を鳴らすでもなく、避けるようにしながら追い越している。このお婆さんが車で外に出るのを誰も止めなかったのだろうかと最初は思ったが、無理を押し通せば何とかなるものなのだろうと思わされて微笑んでしまった。意外と本人は運転なら任せておけぐらいに思っているのかも知れない。確かに顔を上に向けているので信号だけははっきりわかるらしく、黄色になった時点でちゃんと減速して止まっている。アメリカは車社会なので車がないと非常に不便だ。歩くのに難儀する高齢者なら尚更だろう。独り身になっても子供が世話してくれる訳でもなく、死ぬまで自分のことは自分でやらないと生活できない社会なのでこんな光景もさして珍しくは無い。概して高齢になり、連れあいもいなくなって孤独な老人になると、生活弱者となった我が身を痛いほど感じるのだろう。多くの高齢者は獣の中を歩くようにひるむまいとして構えていてその表情は固くなっている。為に生きる愛の世界ではなく、弱肉強食の世界に縛り付けられて惨めな余生を生きている。別にアメリカに限ったことではない日本だって孤独老人の問題は大きいが、日本でこそ自分のことで精一杯でそれどころではないと後回しにされている。祖父母を蔑(ないがし)ろにすることは過去を蔑ろにすることであり、過去は霊界に繋がり霊界は天国に繋がる。家庭に祖父母がいなければ後孫は霊的なものが塞がれてしまい、内的霊的な価値を見出しにくくなる。家庭理想をしっかりと掲げ、祖父母の位置、父母の位置、そして子供と後孫の位置を本来の位置として取り戻すと、家庭という木が正しく成長していく。

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