2012年12月31日月曜日

今日の想い 514

2012年が暮れて行く。2012年という時代霊は、既に交代式の時に御父様の聖和を司る時代霊だとわかっていたのだろうか。闘病期間を受け持ち、聖和される瞬間を受け持ち、そして聖和式から基元節へ向かう最終準備を受け持つ時代霊だとわかっていたのだろうか。勿論陽暦ではなく陰暦の時代霊で、陽暦の時代霊は報告を受けて見守ったにすぎないだろう。マヤ暦の終わりはやっぱり何もなかったと、ノストラダムスの予言や2000年問題と同じこの手の話は狼少年状態で、計算間違いで本当は2015年だとか2020年だとか言っても、今更誰も信じる人はいないだろう。しかし世の終わり、新しい天地は盗人のようにやってくる。霊的なことがわからないから天宙の大変革が起こっていても察知できない。わからなければ起こっていないと同じだろうと思うかも知れないが、地上世界ではその時を待ち望んでいて、光も空気も水も土も知らない間に様変わりしていく。神様の結婚式は天地の結婚式。天におられる御父様と、地におられる御母様による結婚式。結婚されればどうなるか。始めて天宙の胎に神様の精子を戴いた受精卵が宿るだろうか。基元節を超えると天宙の十月十日の腹中期間があるだろうか。妊娠女性の胎中の変化は驚天動地の大変化で、そのように天宙の胎である地球に大変革が起こって当然だろう。しかし具体的にどうなるかは誰もわからない。強いて言うなら私達は生まれ変わった実体を持つだろう。私という存在が、霊の深みに於いて御父様に接木されたかどうかを、生まれ変わった実体によって確認するだろう。復帰されたエバの胎の中で私は生まれ変わった実体を持つ。解怨され、祝福されて絶対善霊となった霊達が先ず地上に降り下り、実体として生まれ変わる私達に協助することで彼らも霊の変革、霊の昇華を為していく。御父様が話された霊連世協会という聞きなれない不可思議な言葉に、霊界と肉界を連結する実質的統一を完成するとあるように、御父様によって祝福を受けた者が先祖祝福を受けた霊達との実質的統一を完成した者達の協会となれば、その協会は天理と天道で万有を治めていくようになるだろう。統一教会は生まれ変わり昇華して霊連世協会になる。2013年の時代霊は御父様の完全主管のもとでこの摂理を経綸していくことになる。

2012年12月29日土曜日

今日の想い 513

この世にはない、まったく新しいものを創り出すことが私達の使命であり、そこにこそ心魂を注ぎ込んでいくべきだ。この世に既にあってその輝きへの憧れを抱いたところで、そしてそこを目標として目指したところで、所詮この世の模倣に過ぎない。統一食口は、特に二世は、そんなことで新しい天地を見出したと言うことはできない。今までになかった光が差し込む新しい世界観を持った御父様の子女だと証しできない。この世に引けを取らないようにと競争意識を持って証しするのもいいが、御父様の子女であるなら、人々が目を見開くような様々な創造性を発揮すべきだ。あらゆる分野で今までになかった全く新しい何かを人類に差出し、人類を希望的未来へと牽引していくべきだ。その燃える気概を備えてこそ、統一勇士の名に相応しい者だといえるだろう。天と地、霊界と地上界はひとつになる。その内的霊的意味をよくよく理解して私の中に落とし込まないと、私の意識は地上に釘付けされたままだ。地上で肉体の中に住みながらも天上の神霊と授受できることが、私の意識にとっての天地がひとつになる意味だろう。神霊と交わり、叡智を得てこそ私は創造が為せる。新しいものを創造すればそれで良し、伝道しなくてもいい氏族復帰しなくてもいいと言っている訳ではなくて、伝道を本気で考え氏族復帰を本気でしたいのなら、それができる環境要件を整えることが必要だと感じて当然だろう。霊感商法や教会のゴタゴタでイメージが悪くなったから難しい、確かに今の状況で声をかけ話してみたところでうまくいくはずがないことは目に見えている。それでも霊界を信じて闇雲に飛び込んでいくことを御母様は本当に願われているのだろうか。私達は霊界を信じるといいながら、実のところ周りに合わせて無分別に飛び込んでいくことが私達のあるべき信仰姿勢だと思い込み、霊界を信じたつもりになっているだけかも知れない。闇雲に飛び込む度胸があるなら、そのパワーを環境用件を整えるために使うべきだろう。エサウがヤコブに屈服したように、この世が私に屈服する為には、彼らに与えるものがあり彼らが見上げるものがないかぎりは屈服のしようがない。彼らが仰ぎ見る何らかの権威なり名誉なり財産をもってしか、伝道なり氏族復帰の環境要件は整えられない。講論を手にし自叙伝を手にしただけの私の言葉に耳を傾ける者がいるとすれば、既に当の昔に復帰されているはずだ。しかし環故郷で教会から遠ざかってしまったように、環境要件を整えることを手段としていたのが、逆に環境に主管されてしまって、伝道への想い、氏族復帰への想いが失せるなら元も子もないだろう。全てを捧げてきて未だに裸同然ならその心配はないかも知れないが、環境要件を整えていけば多くの食口がカナンの先住民に同化してしまう心配は確かにあるだろう。しかし私達は環境に同化するのではない。環境に新たな創造の光を差し込み、私達が環境を主管し、アベルとしてカインを屈服させ、彼らを伝道し氏族を復帰する。、、、ここまで書きながら、それもこれも、本来基元節を迎えるまでにすべきだった私達ではなかったのだろうかとふと思わされる。

2012年12月28日金曜日

今日の想い 512

彼らが確信犯であることが、既に彼らが改心して帰ってくることが絶望的であることを示している。ああ言えば上祐で、どんな証拠を出したとしても、どんなに理路整然と彼らの間違いを説明したとしても、思い込みを彼らの信仰として譲らないし、上祐ばりの論理で持ってどのようにも反論してくる。確信犯である以上、論理展開でどうこうできる段階ではない。基元節の開門は既に目と鼻の先だ。基元節を超えてどうなるかは地上人間には完全封印されていて、誰もそのイメージを今描くことはできない。驚天動地の事態になることだけは確かだけれども、誰もそれが何なのかわからない。古い天地は崩れて滅び、新しい天地が生まれるというのは、霊的見地に立つことで表される言葉だけれども、私という存在の基底に霊があり、霊が古い天地に杭打ちされたままで新しい天地へ移籍できなければ、古い天地と共に消え失せてしまう我が身かも知れない。救いが完成されたということは、その救いを否定すれば別の救いの可能性はないということだ。確かにイエス様の霊的救いは完全な救いではなかった為に、イエス様を否定したとしても救いの可能性は残されたが、お父様は完成完結された為に、御父様の子供とされて懐まで入りながらも否定してしまえば、新しい天地へと救い出され移籍できる可能性は絶望的だといえる。御父様が完全な救いを差し出されたことは、別の角度からいえば救いを否定してしまえば永遠に裁きから逃れられないということだ。その恐ろしさを理解していない。そう言うと恐ろしいから信仰していると捉えられるだろうから畏怖という言葉を使うことにするが、霊が畏怖で消え入ってしまう。心が恐ろしく感じることと霊が畏怖で消え入ることとは別次元のことだ。基元節を間近に控えているのに、教会がどうしてこんな頭を抱えるような事態になったのだろうと食口誰もが憂慮しているが、事実をいうと、私達が願いに応えられなかった為に必然的に起こったというのが蕩減の見地から言えることであり、しかし私達に取っての恩赦であり救いは、この踏み絵を超えることを責任分担として教会側に立つことで、開かれた基元節の門に入ることが許される、再祝福に与らせて戴けることだ。私達は御父様が願われたことごとくを失敗し、敗北の墓碑を連ねてきた。それでも基元節を超えさせたい、再祝福に与らせたいという真の父母である親としての想いを、この踏み絵を勝利することでサタンへの条件として用意されたと見るべきだ。だから兄弟喧嘩だ、親子喧嘩だというような理解で無視したり、見物人になりさがったりすべきではない。私の信仰路程で培った全ての心情を投入して、基元節前に敢えて聖和された御父様に対し精誠の限りを捧げるべきだ。

2012年12月27日木曜日

今日の想い 511

本体論の核は絶対「性」にある。この絶対「性」の概念を私の中でどう構築するかが問われている。性という場合、御父様が性に対して認識している概念と、私達の観念とは異なるものだというスタンスに立たなければ、御父様が絶対「性」を持ち出されて話される前後の意味合いが通じない。堕落世界で性という観念には、直接的感覚が全面に押し出されている。性、SEXと聞けば条件反射的に或る感覚的悦楽が全面に押し出されて想起される。霊的に堕落した原因で肉的感覚的な堕落が結果となったので、この堕落世界の感覚的なもの性的なものは絶対「性」ではなく堕落「性」だ。だから既存の感覚的なイメージが伴う時点で既に絶対「性」とは異なっていると思う。それでは絶対「性」の概念をどう構築すればいいのか。ひとつの解く鍵は誰もが気付いたに違いないひとつの疑問にある。それは御父様がその言葉を使われるとき、絶対「性」なのか絶対性の意味で使われているのかの戸惑いだ。堕落性が堕落の「性」と切っても切れない関係にあるように、絶対性も絶対「性」と関係しているはずだ。と言うより、絶対「性」も絶対性も御父様にすれば同義語であるという可能性もある。何々性という言い方を私達はよくするが、それは性質を言っている。個性は人格としての性質であり、品性は道徳的な性質をいうが、こと精神的なことに言及する場合、性質ではなく性稟と言うべきかも知れない。全ての存在は或る陽性と陰性の一体化で存在しているように、性稟としての精神的現れにもその陽性、陰性がひとつになって性稟となる。要するに有形無形に限らず全ては凹凸の一体化の結果を存在として見ている。そして一体化には必ず中心となる想いがある。心情と言うべきかも知れない。心情を中心とする凹凸の一体化、即ち「性」であり、万物世界に関する限りは神様の心情を中心とした凹凸の一体化を現象として、或いは結果として見ていて、そこに堕落の要素は伺えない。元素(鉱物)次元、生命次元に限る凹凸ではそうだが、そこに心魂次元が関与すると途端に絶対的な基準に反する性が、現象(偽りの愛)として、結果(偽りの血統)として現れる。絶対と言われれば、絶対「性」の前に絶対信仰、絶対愛、絶対服従を語られたのであり、絶対信仰、絶対愛、絶対服従を通して絶対「性」の概念が構築されるはずだ。だから絶対信仰、絶対愛、絶対服従の柱が立たない限り、絶対「性」を語れない。

2012年12月26日水曜日

今日の想い 510

自分の感情はどれほど弄ばれてもいい。どうしようもない。今のこの感情をどう主管しようにも、新たに次から次えと訳のわからない感情が押し寄せてくる。感情活動が停止しない限り、私にとって平安は無縁なものだろう。2012年が暮れていく。クリスマスとも思えない暖かな穏やかなこの一日、いろんな霊がその抱えたものを持ち寄って、感情の波となって次々押し寄せる。私はなすがままにされるしかない。抗う術(すべ)もない。おそらく私は、このひとつひとつの感情を味わいながら、霊達は負い切れない抱えたものを降ろしていくのだろう。ひとつふたつなら代わってやれる。しかし一度に来られて背負いきれるものではない。クリスマスであればいろんなプレゼントをもらって喜び、感情はしばしの停戦を迎えるはずなのに、頂けない重い感情を受け取りながら、私はどう感謝したらいいものかと途方にくれている。2012年のクリスマス。御父様が聖和されたばかりのクリスマス。その現実の状況を知りながら、プレゼントをもらってはしゃいでいる方がおかしいと言えばおかしいだろう。感情の荒波に翻弄されながら苦しむだけ苦しめばいい。弄ばれて傷だらけになって、涙が枯れてしまえばいい。痛みが引かないこの左足をどうしたいのだろう。腹痛を訴える妻を更にどうしたいのだろう。おろおろする私をどうしたいのだろう。孤独という名の友がいて、私が生まれたときから付き纏っているこの友は、歓迎されぬ知り合いの霊ばかり呼び寄せながら、私をさらに孤独にさせる。解怨されたはずなのに、未だに気配を感じるのは、ひょっとして孤独という名の隣人は私自身なのかも知れない。私という存在が孤独そのものかも知れない。誰からも距離を保とうとし、家族さえも私は距離を置いているらしい。子供が妻がそうしていると思ったけれども、実は私自身がそうしているらしい。私はどう変わればいいのだろう。どう変われば、御父様の御心情のひとつでも、胸の内に迎え入れることができるだろうか。悔い改めることもできない忌まわしい私は、どこまでも弄ばれるしかない。クリスマスの夜に霊達が押し寄せる。

2012年12月25日火曜日

今日の想い 509

御父様が怒気を露にされ口にされることさえも、それは御父様の本心ではないと言う。おそらく子供に出て行けと父親が怒鳴りながらも、それが親の本心ではないからと思うのと同じ感覚のつもりだろう。側近の正しくない報告を受けられて判断せざるを得ないことも含めて、御父様には御父様もその時点ではわからなかった事情があるのであり、霊界では全てが明らかになってわだかまりが解けるはずだと信じているのだろう。心の中では釈然としないものがありながらも、御父様の言葉に対して形だけ動じ静ずる中心者や食口をして、御父様に侍っているとは言えないと思っているのだろう。しかし私はこの心魂と生命をかけて明言する。彼らに自覚はなくとも、自分達こそが絶対信仰だと思わされて操られているサタン的確信犯に違いない。彼らには彼らを操っている存在を認識できない。良心に従った自分の意志だと思い込んでいるからだ。自主性というけれども、地球上で何らの主管も受けていない人間は誰一人としていない。何らかの霊的存在が私の心魂に、意志に関与している。彼らが自分が良心だと思っているものが、どういう霊的存在が関与し主管しているかを見届けるほどには祈りもとめてもいないし、心霊の部分に関わろうともしていない。御父様にどこまでも着いて行って、霊の深みにまで降りて行って自分の根源を問い直す作業をすべきところを、彼らは中途で止めてしまって心魂のステージに留まっている。彼らは人道的道徳的倫理的な位置で理解する御父様を御父様としている。それらの位置を凌駕する膨大な神霊に関わる部分に足を踏み入れることを止めている。彼らのみならず、誰もが自分の本当の良心によって自分を裁く局面に必ず出くわす。そのとき彼らは御父様に対する拭い切れない罪をどうやって清算するのだろう。後孫に清算させる場面がどれほど見るに耐えないものであるか、想像にかたくない。御父様の御子女様だからたとえ間違っていたとしても結局は許されるはずだと、安心しているのかも知れないが、天宙をひっくり返したサタンは元々サタンとして生まれたわけではない。神様の全信頼を受けてアダムとエバを預かった位置であり、アダムに取っては叔父であり、もちろん神様の愛を一身に受けていた位置にもいた。御父様に対する御子女様も同じように愛される位置にあることを忘れてはならない。

今日の想い 508

霊的なものが見えないわからないという霊的感性の欠如が、私達の認識を誤らせ、判断を誤らせる。原理を通して神様を知りサタンを知り、霊界を知り摂理を知っている。知ってはいるけれども実に頼りないおぼろげな認識のまま今に至っている。私にどう神様が働きかけ、どうサタンも働きかけているかの認識もできずに、どうして外界に対する私の認識が正しく、判断が正しいと言えるのだろうか。内的霊的なものが漆黒に沈んでいて何もわからないから、ひたすら導き手である御父様に従い歩んできた。御父様と共に歩んだ中で、見えないものへの感性をいくらかでも養ってきたはずだろうに、御父様が聖和された今、再び感性の芽を漆黒の彼方に追い遣ろうとする者達がいる。私は御父様と共に歩んで培ってきたものを土台とする以外方法はないはずなのに、またしてもこの世に於いて慣れ親しんできたこの世的感覚を認識と判断に持ち込むなら、実体の御父様に従い侍り歩んできた路程は一体何だったと言うのだろう。み言葉は確かに難しい。特に八定式以降のみ言葉は難解を極める。しかしわからない、私に触れるものが無いからと言って、そのみ言葉が重要ではないということではない。だけれども何の躊躇もなく、置き去って当然のように、わからないまま放置している。前にも記したように、私という存在はミクロコスモス(小宇宙)の存在だ。どれほど難解であっても御父様のみ言葉や勝利内容は私の中に存在している。御父様が勝利された勝利圏が確実に私の中に存在していて、その核心が私を霊の存在たらしめている。み言葉がわからない、摂理的勝利内容がわからないとは、私の中で起こっていることがわかっていない、私という霊的存在の基がわかっていないと言うことでもある。わからないまま地上的感覚をもって認識し判断するなら、確実に私の中で起こっていることと、私が外的に為そうとすること、為したこととの大きな矛盾性が私自身を破壊に繋げるだろう。熱いか冷たいか、御父様に絶対服従するかどうかはっきりすべきであって、み言葉をなまかじりして、自分に都合のいいように解釈し当て嵌めるならば、霊的整合性が合わずにみ言葉に焼かれてしまう。

2012年12月21日金曜日

お金への想い

事業に於いては、利益をはじくのではなく利益を産む、という理解がなければ、事業の成長を見ることはできない。店を経営していて、商品原価にいくらかかり、人件費にいくらかかり、光熱費、家賃等含めた諸経費にいくらかかるか、というような見方は、表面的なものを数値に直しただけであり、本質の部分、利益という新しい価値への芽吹きとして接するのでなければ、いくら結果数値を睨んでもそれは死んだ数字でしかない。死んだ数字から何も生まれない。数字の生きた部分、お金の生きた部分に働きかけることができれば、利益を産む。価値創造ができる。私達は神様が存在されることを知っている。しかし私は無意識にも神様が存在されない前提で行動していることが多々ある。知っているけれども、感覚や気分の部分、意志の部分で否定している自分がいるからだ。感覚的に実感できないからだ。だから信仰が必要になってくるといえる。変な言い方になるが、数字の生きた部分、お金の生きた部分に対しても信仰が必要になってくる。生きた数字、生きたお金として捉えられない私が、霊が関与し、生きて働く部分を少しでも認識していく為には、数字の霊、お金に関わる霊への信仰が要求される。量よりは質に関心を持つことがよりお金に対する霊的部分、本質に関わるのであり、ただこれだけ入った、これだけ出たという唯物的捉え方ではなくて、入った過程とそれに込められた想い、出した理由とそこに込める想いを掴み取ることが、よりお金に対する霊的部分、本質に関わることになる。神様に対して祈祷するように、お金に対しても言葉をかけ、尋ね、お金の想いが伝わってくるほどになることが大切だ。共産主義者だけが唯物的なわけではない。物を物として対し、お金を物として対している時点で、十分に唯物的だ。唯物的と生産的、創造的とは相反し、唯物的であれば一切は消費でしかない。

2012年12月19日水曜日

今日の想い 507

思春期の頃、都会へのあこがれを持ったのは何故だろう。何が私を都会へと駆り立てたのだろう。この地上世界に生まれ落ちるつもりはないのに、押し流されるままに産道を流れて、気がついたら私という人間を認識していた。そんな生への受動的な位置で、暗く、寂しく、寒い故郷で、いろんなものに慄(おのの)いて暮らしていて、その息詰まる生活からとにかく逃げたかったのだろう。明るい都会、賑やかな都会、そして暖かい都会に行けば、訳のわからない脅迫感から逃れられると思ったのだろう。いろんな光が鏤められ、いろんな色合いに溢れ、感情を潤したり高めてくれる旋律も流れ、都会はこの世の天国のはずだと思った。しかし、都会という天国は幻想に過ぎなかった。私は魂の深層、霊界を対岸で見ていた位置から感覚世界の都会へ逃げ込むことで、幻想の中に身を置いた。感覚世界の花や実だけを受け取っていると誰もが信じているが、花や実を追い求めれば追い求めるほど感覚世界の汚れを魂に付着浸透させ、それによって自分の霊が蝕まれているということに誰も気付いていない。感覚欲望を満たしてくれる甘くて美味しいものはサタンの愛という偽りであり、逆に苦くて避けたいものには神様の愛に通じる本質が宿っている。霊的感性がないか霊を否定した位置であれば都会はこの世の天国だろう。集合的に生活しながら、しかし内的霊的には益々個の中に留まって他とのバリアを厚くする。感覚的欲望を満たしながら、しかしどこまでも自分の霊を地獄の底に追い遣っていく。堕落的心魂は呼吸できても、愛の本質を呼吸する霊が呼吸できない。その息苦しさを覚える者は正しく御父様に出会えるはずだ。しかし心魂の呼吸の苦しさから救いを求めた者は、御父様を知り共に歩んだとしても、どこかで離れていってしまう。確かに今の都会は物だけを求める人間の餌場としての都会ではない。しかし今の都会は霊を切り離して心魂のステージ、とりわけ感覚を満足させる心魂の呼吸に留まっている。真の愛が関与され、霊の成長、霊の呼吸を満足させる新生都会が地上に現れる時がやがて来るのだろうか。ひょっとして、それを地上天国というのかも知れない。

2012年12月18日火曜日

今日の想い 506

再度のオバマアメリカの4年が始まる。大統領選の共和党民主党の政策論争の焦点は、やはり経済政策だった。勿論世界経済をどう牽引していくかではなくて、内向きの視点から国の経済をどう成り立たせていくか、雇用と税金、社会保障をどうするのかが争点だった。アメリカはキリスト教建国精神が立っていたが故に、神様の愛する国であり神様の加護があったはずだ。しかし今、その精神は形骸化してしまっている。経済政策をどうこうの前に、国の柱として立たせるべき精神がある。国の骨格としての精神が立たずして、どうして経済という血肉の部分を盛ることができるだろうか。今こそ建国精神に立ち返るべきだと訴える候補が出てくるべきなのに、それを産み出す国家的気概、米市民の気概は今のアメリカにはない。経済政策の為に影を潜めていた同性結婚、市民婚、中絶問題をどうするかの方が私達の教会にとっては関心事で、選ぶとすればロムニー候補だったけれども、彼にどれほど建国精神が立っているかは私にとっては疑問だった。アングロサクソン独特の傲慢さが表情や口ぶりに垣間見えて気になった。どちらが立つにしても問題は山積みで、どちらが立つにしても摂理から距離を置いてしまっている。即ち建国精神を失ってしまったアメリカに背骨を入れられるわけでもなく、アメリカが御父様の切実な願いに対した当時の分水嶺の状況で、ブッシュ親子が結果的に御父様の願いからずれてしまったことは、アメリカにとって国を失うほどの摂理的失敗だった。2010年11月22日、天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会が実際はニューヨークで行われたけれども、ワシントン、ニューヨークと題されながらワシントンで行われなかった意味を考えてみるべきだ。あれ以来、御父様はワシントンの地を踏まれてはいない。同じ大会をソウルに、そしてラスベガスを経て、更に仁川からヨーロッパに繋げていかれたその意味を考えてみるべきだ。ラスベガスもアメリカだと思うかもしれないが、御父様の中には領土権で引っ張られた線の認識はなく、ラスベガスを中心ワシントンに繋がるものとして把握してはおられなかったはずだ。明らかに摂理に対するアメリカの主要な部分を諦められ、ソドムゴモラの地、悪の巣窟ラスベガスに天の陣を張られた。今回のオバマの再選を見る前に御父様は聖和された。以前御父様は、アメリカは34年間御父様に侍らずに滅びるようになった、と話された。そしてアメリカを捨てて行くがその代わりに教材をつくり、教材に侍って立てることを願われてアメリカを後にされた。もはや実体の御父様に直接侍ればよかった機会を永遠に失い、覇権国家の滅びの道を余儀なくされたのであり、国家として生き延びる道があるとすれば教本教材に侍る道だけだ。

2012年12月17日月曜日

今日の想い 505

基元節を間近に控えているのに、しかしその日を迎える何の準備ができたと言うのだろう。何の条件を供えたと言うのだろう。何の準備も供えもなく、基元節を迎え再祝福に与ろうとしている。どんな顔をして迎えたらいいのだろうか。受けるに値する何もありませんと、本当は祝福を辞退すべきなのだろうか。私達はひとり残らず厚顔無恥だ。祝福泥棒でありながらも、それも知らなければ恥も知らない。それでも、皆当たり前のように祝福を受け、私も再祝福に与るのだろう。しかし受ける者としての本当の課題は、その祝福に耐え得るかどうかだ。受けるときにそれに耐え得なければ祝福が私を裁く。宝くじに当たった人が、その後どうなったかを見届ければいい。確かに人生は一変する。自由に使える金が目の前にあれば、あるだけ使ってしまう。使った後、また普通の人生に戻るだけだと思っている。しかし戻れない。使うことで自制心を失うからだ。責任のない自由を謳歌してしまえば、自由には必ず伴う責任とのバランスが取れなくなる。そして破綻する。更に人生も破綻する。それと同じことが祝福にも言えるのかもしれない。皆、祝福の価値を知らない。価値を知らずに受けてしまえば、祝福の重さを抱えながらその重さを認識できない。抱えきれない霊的その重さは確実に存在するのに、それを認識できない。霊的重さを認識できずに祝福という霊的自由権を使ううちに、霊的責任とのバランスが取れなくなる。そして霊的な柱が壊れていく。私達が再祝福に与るにおいて、せめてもの重さを認識しなければその祝福に耐え得ないだろう。せめてもの重さとは私の死生決断だ。この生命を賭して絶対信仰し、絶対服従するという覚悟をもって臨むのでなければ、必ず祝福が私を裁くだろう。

2012年12月16日日曜日

今日の想い 504

十二月とは思えない暖かい一日だ。こんな青空が広がる美しい一日だけれども、こんな日であればあるほど悲しくなる。既に御父様は同じこの地上にはおられない。その実感がどういうわけかこんな日に限って迫ってくる。私を中心とした摂理は、一度は蓋を開けて確認してみたものの、手に負えない気分に負かされて、しまい込んだままになっている。既に自分の人生は壮年期を超えようとしているのに、未だ摂理の箱は預けられたそのままの状態だ。起きて、食べて、見て聞いて、少し動いて、そして寝る。摂理の箱を横目で眺めながら、それを何度繰り返しても私は変わらない。御父様がまだこの地上におられて、私が御父様から離れるか見失わない限り、それでも私は許されていた。地上に生まれてから御父様に出会うまで、私のその暗闇の期間であっても御父様は同じ地上におられたのであり、何らかの導きの糸が繋がれていて手繰り寄せられていた。しかし今の地上には明らかに御父様は存在されない。私は初めて、御父様が存在されない地上に存在している。私が生きながらにして御父様に出会うためには、おそらく次の言葉が当て嵌まるのだろう。私が勝利して受け取った心情圏の広がりと深みに、御父様は訪ねてこられるのだろう。でも私は何の勝利もしていない。ひたすら御父様の袖を握り締めてここまで来たけれども、何の勝利もしていない。心情の相続が為されていない。私は御父様に愛想を尽かされてしまったのだろうか。愛想を尽かされて私を置いたまま、この地上を離れられたのだろうか。この青空が広がる美しい一日に、私はこの悲しみにくれている。陽の光が眩しいかのように瞬きをし、涙が流れ、どうしていいかわからない。

今日の想い 503

1989年8月31日、八定式。御父様はこの八定式で縦横の八段階すべてを勝利されたことを宣言された。神様が宇宙の夜、宇宙の昼を繰り返し、宇宙の七日をもって創造されたように、御父様は蕩減復帰という再創造路程を八段階で終えられた。だから七日の暦から安侍日を含む八日の暦になったのだと私は思っている。御父様が個人を犠牲にされて家庭を、家庭を犠牲にされて氏族というように、次の段階には前段階の犠牲を供えられたように、神様の創造歴史の一つの段階から次の段階には、前段階の犠牲の上に成り立ったのだと言うことができる。宇宙歴史は七日間の先天を越えて八日という後天に入り、新しい天地は御父様の犠牲の上に成り立つことになる。御父様の勝利圏は、我々が御父様の勝利への認識を大きく裏切るほどの勝利であり、人類誰ひとり御父様の勝利の意味の本質を理解している者はいないだろう。後天時代のこれから、勝利の意味のひとつひとつを、腰が抜けるほどに内的霊的にも、外的地上的にも捉えて行くのだろう。御父様は今の我々が何もわかっていないことを理解しておられる。我々が新しい天地に住まう為には、御父様の後をひたすら着いて行く私にならなければならない。御父様は八段階の蕩減を超えられ、直接主管圏に向かう九数、十数、十一数、十二数、十三数を超えて行かれた。個人から始まって家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様の心情圏まで八段階の形態はイメージできるけれども、それ以降の段階は堕落の位置からすれば数字以外の何物でもなく、何の理解の糸口も掴めない。しかし御父様が超えられた段階は確実に地上に於いてその時代圏を迎えるのだろう。

2012年12月14日金曜日

今日の想い 502

この虚しさをどう埋めたらいいのだろう。時だけが否応なく過ぎ去って、惨憺たる現実だけが重く横たわる。誰に責任を問えるわけでもなく、ただ泣き叫びたい。できるなら自分を痛めつけたい。時として私は信じられないほど落ち込んでしまう。現実が私を裁いている。息子が、娘が、妻が、私の前を、後を、横を通り過ぎる。でも決して私を前にして立ち止まることはない。ただ通り過ぎることで私の存在を否定する。一緒に食事もする。話もする。冗談も言い交わす。しかし誰も心の奥は開かない。心の奥に関心も持たない。堕落意識、罪の意識に目覚めている訳でもなく、そうであれば、真の愛という光の意識が芽生える訳でもない。祝福家庭の形だけを維持するこの家庭が神様にとってどれほど恨めしいだろう。神様にしてみれば輪郭だけの虚しい家庭。私と彼らに死の実感がなければ、この輪郭を生だと認識したままでいる。輪郭はただの幻覚に過ぎないのに、輪郭をもって満足している。もし私が彼らの目の前で死をもって輪郭を突き破るなら、彼らの目は覚めるのだろうか。死を差し出すことのショックで、魂は生き返るのだろうか。そうであるなら、私は何の躊躇もなくこの命差し出すだろう。御父様は聖和されたけれども、私は地獄に落ちる死をもって彼らの魂を喚起するだろう。恨みと絶望と歯がゆさで、そして育んだなけなしの愛で、彼らに付きまとい彼らを常に喚起し続けるだろう。祝福家庭にとって二世の問題は、私が地上にいる間だけの問題ではない。霊界に行けば更に切実な問題として、地上に関わり続ける必要があるだろう。私の祝福への過程があり、更に祝福を受けてそのまま祝福の実体になれないように、二世であれ三世であれやはり祝福への過程があり、更に実体への道のりがある。現実はどこまでも残酷だ。私が描いた、たとえそれがみ言葉によるイメージであったとしても、そのユートピア的な偽りの理想世界を崩されながら、この現実の残酷さの中に愛の何たるかを見つけ出し、与えられる理想世界ではなく、私が私の手で私の理想世界を築き上げていく。そうせざるを得ない。御父様の勝利圏とは、その相続は外的なものではなく、どこまでも内的霊的なものに違いない。

2012年12月11日火曜日

今日の想い 501

考えてみると、御父様が聖和されたにもかかわらず、何も無かったように世界はまわっているし、変わりない日常を暮らしている。一体どうなっているのだろう。私もその流れに埋没するように自分の毎日が流れていく。何もなかったようにご飯を食べ、何もなかったように仕事をこなし、何もなかったように笑顔で会話し、そして何もなかったように眠くなる。肉の親が亡くなったとしても暫くは喪に服すだろうに、私にとっての御父様の存在はそれほど簡単に処理できるものだったのだろうか。これが聖和から数年が経ったと言うのであればそうかも知れないが、たったこの間の出来事だ。涙のかわく間もなくとはこのことだ。聖和式から三月と経っていない。御父様が存在しない地上でありながら、何の不自然さも覚えず、前と変わりなく暮らしていける自分自身が信じられないし、恐ろしい。X-dayを想定しながら何度も何度も聖和された後の自分の在り様を探ってみた。何度も何度もイメージを試みてみた。聖和されれば私の中で欠落するはずの何かがあったはずなのに、しかし聖和という事実を踏まえながらも、こと外的な事柄に関しては同じように流れている。これで本当にいいのだろうか。いや、決してそんなことはないはずだ。何かのフィルターが掛けられていて欠落を欠落と感ぜず、それを壊せないまま堕落生活圏に取り付かれている。少なくともこの内面の足掻きを認識している今のうちに、確かな聖和された御父様と繋がる糸を、因縁を、結びつけることだ。今のうちに精誠で因縁の糸を手繰り寄せなければ、糸を切られた凧のように飛ばされて、本郷の地には永遠に辿り着けない自分になるだろう。御父様との因縁の糸を自ら断ち切り、去っていった兄弟達がいる。中には有名人もいてたまに映像で見かけたりする。何の憂いもないように、誇らしそうに、化粧栄えする顔を晒している。彼女や去った兄弟達の内面には、何のわだかまりも、僅かの引っかかるものもないのだろうか。因縁を切ったことの清清しさだけを覚えるなら、神様を随分遠ざけてしまったとしか言いようがない。そういったように、御父様が聖和された今、その事実とは関係なく毎日の生活の流れに何の不自然さも覚えないなら、私達も同じように神様から、御父様から、神霊から遠ざかっている。

2012年12月8日土曜日

今日の想い 500

人間誰しも残酷な面を持っている。私の中にも残酷さが眠っている。残酷と無邪気は同じ顔をしている。子供には無邪気さがあって、大人の精神が関与しない行動を子供は取っている。成長するに従い精神性を帯びてきて無邪気を主管する人格を備える訳だけれども、大人になっても無邪気を主管できないか、或いは意識的に主管せずに存在する大人がいる。そういった狭い子供から広い大人になると、狭域では無邪気だったものが広域に広がると残酷になる。無邪気も残酷ももともと同じ存在だ。同じように無鉄砲であり、同じように破壊的だ。子供の場合は知恵も記憶も能力も限定的である為に、周りのものを壊す程度だけれども、大人に成長すれば知情意の発達と共に破壊度を増してくる。無邪気を主管できない大人の在り様は、その創造性の顕著さに見ることができる。破壊と創造は一面の裏と表であり、破壊性が際立つ者はその創造性に於いても際立つ。それが善の創造であっても悪の創造であってもだ。作家や芸術家は創造性が要求されるが、特に歴史に名を残すほどの人物は影の部分の破壊性にも富んでいて、その多くの場合、破綻的人生を見ることができる。同じようにこういった人物が政治権力に関わると、革命的であったり破壊的であったりする。先に触れたヒトラーは芸術的感性が鋭い、言い換えれば過敏なほど神経質だが、それは子供のように無邪気なまま大きくなり、その潔癖さ故に自分の嫌うものを許容することができない存在になってしまった。よって極限まで排他的になる。人類史上類を見ないこの残酷性の表出は、幼児的存在に権力を持たせたことによる悪魔の生贄だ。誰もが多かれ少なかれ残酷な要素を持っている。それを否定して見ないようにするだけでは、環境用件が揃ってしまうとこの醜い顔が現れてしまう。しかし敢えて抉り出して見ながら、どう使うかによっては善の使用に大きな力となることだろう。自分が今まで培ってきたものを未練なく壊すことも必要だからだ。

2012年12月7日金曜日

ホロコーストミュージアム

蕩減復帰摂理を学べば、ユダヤ民族が大量虐殺された原因を、蕩減原則の観点からイエスキリストを十字架につけてしまった民族的連帯罪としている。しかしそれは縦的原因であって、横的な地上的意味で打つ者、打たれる者の間に持ち込むべき説得説明にはならない。無理に持ち込んで、ヒトラーとナチスが彼らの蕩減の手助けをしたのであれば、大量虐殺の罪を問われることは無いということになってしまう。蕩減を持ち出すときには個人を問うなら私と天との関係性だけ宛がうべきだろうし、家庭の蕩減をいうなら私の家庭と天との関係性だけ宛がうべきであり、私と他人の関係性に蕩減をどうこう言うことはできない。敢えて口にするなら私は蕩減を口にしたのではなく相手と恨みを売り買いしたということになる。ユダヤ民族の民族的連帯罪をどうこう言えるのはユダヤ民族自身であり、彼らの罪をあげつらうなら彼らへの心情の配慮に欠けたことになり、逆に、時が来れば必ずイエス様や御父様に対する我々の罪を指弾されるだろう。ワシントンに、スミソニアンの美術館、博物館群から少し外れてホロコーストミュージアムがある。そこで600万のユダヤ人大量虐殺、ホロコーストの詳細を見て聞いて知ることができる。ホロコーストとはアブラハム路程に出てくるハン祭、供え物という意味のギリシャ語だが、同じ意味合いの生贄(いけにえ)という言葉で現代人がイメージする感情がその言葉により近い。敬虔なユダヤ教徒はその宗教的言葉を宛がうのをおそらく好まないだろう。館の中に入ると赤レンガのゲットー(ユダヤ人区域)を思わせるような作りになっており、4階に亘るエクシビションの三階は収容所さながらの雰囲気が漂っている。一通り見た感想を敢えて言えば、言葉を失うとしか言えない。鎮魂の言葉も浮かばない。人類歴史の事実、それも近代の事実としてあったことを感情が拒否して納得しない。私は広島の出身だから平和祈念館は何度も訪れているけれど、そこで引き摺り込まれる闇とは比べ物にならない闇の深みの奥に導かれる。私が世界平和の為、人類の救いの為にという言葉がどれ程軽々しいか思い知らされる。神様神様と簡単に口にしているけれども、この言い知れぬ闇の深みをも抱えられる神様を理解しているとはとても言えないし、配慮さえもしていないだろう。真の父母を知り、摂理の一端を担って歩むことの責任の重さ、恐ろしさを一方で覚えなければ、本当の意味での、真の父母と共にある、み旨を歩める感謝は捧げられないだろう。ミュージアムの一階ロビーに下りる手前に、最後の展示物がある。空調されていても異様なカビ臭がそこには漂い、誰もが鼻に手をやる。そして無言で見つめる。そこには広く一面に褪せた黒いものが盛り上げられている。積み上げられ、その重さに潰された何千何万という大量の古びた靴だ。ガス室に入る手前で全裸になり脱いだ靴が残っていて、無造作に積み上げられたそのままを展示されている。彼らが殺された後でも、脱いだ自分の靴を探し回った霊の痕跡が、そこから伺える。

今日の想い 499

魚は殺して食べているし、牛や豚も殺して食べている。人は生き物を殺しているのに、人が人を殺すことは許されない。生きる為に食べ、食べる為に生き物を殺生しているのだから、その殺生は許されると言う。しかし生き物が犠牲になることを許しているのではなく、それは人間の言い分に過ぎないだろう。もし食べる為に人を殺すなら、その殺人は許されるとでも言うのだろうか。生き物を殺すことは許されるのに、人を殺すことはどうして許されないのだろうか。死ぬとはどういう意味があり、殺すとはどういう意味があるのだろうか。生き物が死ぬ意味、生き物を殺す意味と、そして人が死ぬ意味、人を殺す意味の違いは一体何だろうか。これらの問いは人間が精神的存在であるから出てくるのであって、先ずもって精神が存在していてその上で肉体があることを認めない限り、生命の尊厳を問い、これらの問いを立てる意味すらないだろう。歴史上にもこの地上にも、殺人を犯した人は山ほどいる。自分では手を下さない殺人指示を含めれば更に増える。中には戦争を含めて大量虐殺を命じ、加担した人間も過去には多く存在していて、そういった人間が存在するのも人間が精神的存在であるからだ。弱肉強食の動物界に於いて、大量殺戮はあり得ない話だ。人が死の意味を問うのも精神的意味を問うているのであり、殺人の意味を問うのも精神的意味を問うている。殉教という問題を考えるときに、生命を犠牲として捧げる一方で、捧げさせる執行側がいる。殺す人がいて殺される人がいるのは同じだが、殉教では自分が殺されるとは言わない。愛に報いて供え物になると言う。戦争という問題を考えるときに、やはり殺す人がいて殺される人がいる訳だが、殺した相手個人を責め恨みを覚えるので無く、生命を国の犠牲として捧げるという理解がある。寿命が来れば死ぬわけだけれども、寿命を決める天によって殺されると言う言い方もできる。そのように死という意味、殺し殺されるという意味は、同じ肉体生命を失い失わせる事柄であっても、その意味合いはひとつに括られるものではなく、様々な精神的意味合いが存在している。イエスキリストの死と、一人の堕落人間の死の意味合いが全く異なることを考えれば、それぞれの人間の死もそれぞれによって意味合いが違ってくる。私達は肉体の死を死亡とは言わない。聖和と言う。それはただ言い方が異なるのではなく、精神的意味合い、更に霊的意味合いが全く異なっている。もっとも簡単に表現するなら死亡は不安と恐怖の圏内に留まり、聖和は平安と愛に昇華する。人が人を殺すことはどうして赦されないのか。子供に聞かれ、誰かに聞かれ、一言で説明できるような問いではない。人間が精神的な存在であることを理解し、愛の尊さを理解していくなら、愛がかかわり愛が投入された生命、愛の実体化としての生命の尊さも理解していく。





2012年12月6日木曜日

今日の想い 498

イスラエル民族が待望したメシヤ。メシヤが来さえすれば全てのことから解放され、彼らが世界で秀でるであろうと思っていた。選民であっても堕落人間は堕落人間であって、メシヤの本来の意味を正しく捉えることができず、彼らなりの洗い清める者としてのメシヤのイメージ、彼らの願いを成就してくれるメシヤのイメージを持ってしまった。その固着したイメージを捨てることができずにイエス様に対してしまったから、待望したメシヤであるイエス様を十字架に付けてしまった。クリスチャンが待望した再臨のメシヤ。聖書を何度も何度も読みながら、聖書に描かれたイエス様のイメージを刷り込み、天の銅鑼が鳴り響いて全ての万民が見る中を雲に乗ってこられるイエス様を待ち望んだ。その固着したイメージを捨てることができずに御父様に対すれば、到底彼らに受け入れられる御父様ではなくなってしまう。御父様を再臨のメシヤだと認識して慕い集まってきた食口達はどうだろう。3年で地上天国ができると人参を前にぶらさげられて歩んで来たものの、時を重ねて歩むほどに人参は遠ざかっていくようだった。蕩減摂理を感謝で対してきた食口も、いつしか蕩減という名の苦痛に変わってしまった。蕩減を苦痛で捉えれば蕩減を払うことにはならないだろう。感謝で対しなければ蕩減にはならない。御母様が我々の不足を訴えられるのはその観点だろう。アベル的期待感で支えられていた食口はその期待を見失うようになるとカイン的期待を求めるようになる。蕩減に対して希望的側面を見失えば、蕩減と聞いただけで身が竦み、絶望的に捉えてしまう。カイン的感情の領域に留まり囚われている限りは、たとえ天国が地上に現れたとしても見ることもできなければ入ることもできないだろう。霊界で天上天国に迎えられるとしても、犯した罪を首にかけて生活しなければならないとなると、天国は私に取っては地獄ということになってしまう。それと同じ道理で、罪を白日の下に晒すことに清清しさを覚えてこそ天国に住めるように、苦労や痛みという犠牲を払うことに清清しさを覚えてこそ蕩減を払えるのでありその実感もあるはずだ。御母様は感謝の生活で心と体がひとつになると話された。犠牲を払うことに清清しさを覚えてこそ感謝の生活になるはずだ。蕩減のイメージの固着から脱して、蕩減を払う実感、その実感を感謝する実感を捕らえてこそ、愛を呼吸する私を生きることができる。洗濯機の中でかき回されることを恐れ拒み続けるなら、御父様は私をどう洗い清めるのだろう。波風に当たるべきときは身を縮めて体を強張らせるのでなく、両手を思いっきり広げて委ねるのがいい。