2013年5月31日金曜日

意識の光

私達は意識の光をどのように宛てるか。意識を只外界の対象という感覚認識に宛てるだけでは意識は霊的光とはならない。普通、目覚めて外界に没頭している昼日中の間は、霊的なものは受け取らず、とんと霊界とは無関係のように生きている。しかし一日の歩みを終えて、瞑想しながら、今日の一日の歩みを振り返る習慣をつけると、記憶を辿ってひとつひとつの経験がどう私に働きかけたかを再表象し、内的には習慣的で受動的な昼の行動に比べて、記憶を辿るという能動的主体的に経験を表出させることで、その昼の場面では気付かなかったことを気付きとして受け取るものがある。それはまだ明瞭な光とは言えないまでも、意識の光を宛てていることになる。この習慣を積み重ねることで、私の中に意識の光、霊的光を宛てると言う霊的感性が芽生えてきて、或る時から経験の本質的霊的意味を、夜の瞑想の時間を待たなくてもわかるようになってくる。そうなると経験とその本質的霊的理解の時間差がどんどん短くなり、経験すると同時に理解すると言う場面に出くわすようになり、それは経験それ自体が人格を持って語ってくると実感できるようになる。意識の光がそこまで強くなると、更には本質的霊的理解が直感として先に来て教えられ、時間差でやがて起こりうる経験を先読みできるようにもなってくる。霊的感性を磨いた者は、過去へ意識の光を宛てることで現在の蕩減的内容を把握し、願われる現在の責任分担は未来へ意識の光を宛てることでその内容を把握する。過去への意識の光は、私と言う半生を超えて、血に繋がって遡り、先祖や人類の過去を見通して行くことも可能だ。そうして読み解かれる歴史的太古の事柄は、霊界に記憶されたアカーシャーを読み解くと言われる。霊的感性を正しく磨いた者は私が抱えている蕩減内容と責任分担をはっきりと認識して目の前の事に当たっている。問題はこのように論理的に説明すると、思考である論理で枷をはめてしまって、霊的本質的な事柄を矮小化してしまいがちになる。霊は心魂作用を凌駕して次元を高くしているヒエラルキーを崩して、心魂領域の論理という権威を振り回そうとすれば、上に述べた事柄は全く通用しなくなる。だからどこまでも自分の把握や理解は幼く、理解の八割以上が誤解で無知の領域にあるという謙虚さをいつも忘れないことだ。傲慢にもこれだと思って論理を立てて、我知らず脇道にそれ迷宮に入り込まないように、務めて御父様の心情を尋ねる自分に立ち返ることが大切だ。

2013年5月29日水曜日

今日の想い 571

悩み抜け抜け男なら、、。このフレーズだけが私の中で延々と繰り返される。諦めもついて、やっと息を継げる海面の表に顔を出せたと思いきや、またも現実という大海の底に引き摺り込まれて、またも絶望的な感情の数々に翻弄されアップアップしている。堕落世界での家庭の居場所は見いだせても、神様主管の真の愛の圏に於いて居場所が見つからない。居場所が見つからなければさしむき出て行く以外ない。当然祝福家庭の理想へ向かおうとする私の心魂は引き千切られる。もはやサタンが失敗の烙印を押すのを今か今かと待ち構えているにも拘わらず、それでも諦めきれずに一縷の望みを繋ごうとしている。私の中の、最も神様が働いていると実感できる部分だ。神様が働いていればこそ絶望的な感情に翻弄される。口を開けて大きく呼吸することなど許されない。現実という大海の底に引き込まれればえら呼吸せざるを得ない。絶望的な感情に翻弄される間はえら呼吸だ。堕落の海の底で祝福として戴き育てたものを根絶やしさせず、生き延びる為にはえら呼吸だ。堕落世界に於いては祝福家庭は魚族に違いない。御父様はこの堕落世界でどう霊的呼吸をしてこられたのだろう。統一氏族圏は御父様を中心とする家族だといっていいだろう。愛する息子や娘がサタン圏の影響を受け、唯物的な平等を唱える黄金万能主義や、人権を中心として神の理想を見る人権万能主義が横行し、神主義、心情主義が先ずあってこそそういった捉え方も正義となるが、先ず物ありき、人権ありきではサタンの目論見のまま動いていることになる。御父様を慕い侍る群れが、まだ聖和されて間もないだろうに、強制献金(?)だと言って献金の使途までをとやかく言うことが天の願いに適っていることかどうか。我々の目に献金使途がどう映り、我々がそれをどう判断しようが、全ては御父様の許可の下で為された事実であることは揺らぎようがない。結果失敗と私が判断するとしても、目に見えない摂理的投入が為されたかも知れないし、御父様が良しとされたのであればそれでいいだろう。後は差し出した者と御父様との関係でそれぞれが判断することだ。強制だと言って恨みに思うなら先ず祈って御父様に問うてみることだろう。借金までしてズタズタになった自分を御父様がどう見られるか問うてみることだろう。その上で行動を決めればそこに負債は微塵も覚えないはずだ。誰かが先導してそれに乗っかるのは自分の責任を回避しようとする思惑が見える。御父様が聖和されて御母様を中心として延長摂理は進められているけれど、御母様は神様の位置ではなく聖霊実体であられるから聖霊的に働かれる。外界におられた御父様は私達それぞれの内界におられ、内界におられる御父様に向かうように御母様は働かれる。私の中に明確に御父様を見出さなければ、それなくして御母様の働きはあり得ないと思われる。御父様を私の内面でどう掴むか、御父様の争奪戦は既に始まっている。私の中の絶望的感情に翻弄されながらも、しかし決してそれで終わらせるべきではない。切実な想いの中に御父様がおられるのを見出し、さらに見出した御父様は勝利への鍵と方法を差出して下さるだろう。

2013年5月25日土曜日

生理的血筋を越えた血統を把握する

マリヤは聖霊によってイエス様をみごもったのではなく、実はマリヤの姉妹エリサベツの夫である祭司長ザカリヤによってみごもった。聖霊によって産まれたイエス様だと信じていたから神の子イエスであり、堕落の血統と全く関係のないイエス様だと認識していたものを、御父様はクリスチャンの信仰を否定するかのようにその真実をあからさまにされた。その意味するところは、天の血統が堕落の血統を繋いできた生理的血統を通して生まれたということだ。本然の血統、堕落の血統という違いと生理的血統とを同じステージでは語れないということだ。私達は堕落の血統と関係のない御父様だと認識しながら、しかし御父様が聖霊によって産まれたとは誰も言わない。御父様の生理的血筋を遡っていけば、堕落の血統を繋いできた私達と同じように、やはりアダムとエバに辿り着くことを知っている。祝福を受けた私達は堕落の血統から天の血統へと血統転換された。その認識は生理的血筋を問うているのではなく、生理的血筋を越えて生きて流れる霊統とでもいうべきものを捉えている。私達が生理的血筋に固執しても、そこに天の心情が生きて流れるのを見るのでなければ固執する意味がないだろう。時として愛と血統が相容れない、愛を立てようとすれば血統が立たず、逆に血統を立てようとすれば愛が立たないという不条理に出会うのかも知れないが、その場合血統を生理的なものとしてのみ捉えている。生理的なものは飽くまで結果であり、結果をして原因を見届けることはできても結果をして霊なる血統とも言うべき原因を支配することはできない。同じように愛についても結果としての愛の在り様を原因としての真の愛と同じ次元で語ることはできない。愛と生命と血統、その中で最も重要視すべきことは血統だ。それは生理的血筋を重要視しろと言うのではなく、もちろん結果として原因を把握する上で大切であることは前述した通りだが、それを踏まえた上で、天の心情が生きて流れる霊的血統の重要性に触れられた言葉だ。堕落と全く関係のないイエス様をこの地上に送る為に、メシヤの為の基台を造成する為、失敗しては蕩減条件を立たせまた失敗しては新たな蕩減条件を、、と言うように、どれ程莫大な天の精誠、地の精誠が込められて来たかを復帰原理を紐解けば理解できる。血の生理的成分をどれ程研究しても選民の血の中に築き上げたものを見届けることは出来ないだろう。しかし明瞭に血の流れの中に投入されてきた、結果として見ることはできない原因的投入、霊的投入が厳然として存在している。御父様が聖和されても、祝福(血統転換)は為され、祝福の血統の中に、御父様は生きて働いておられる。

恨みを抱える食口に対して

ブログの中には、御父様の心無いと思われる言動を、これでもかこれでもかと言うほどに暴き続け、食口の良心的道徳的な裁量を刺激して御父様へ向かう気持ちを殺ごうと必死だ。確かに御父様の言動には、その真意を測るまでもないと思えるほどに、これが聖人の言葉であり指示命令かと言うようなのも多々ある。特に日本の食口に対しては、韓国をはじめ他の国の食口が同情をも超えて、そのあまりの差別や虐げを不思議がるほどに厳しく接しられた。確かにそれは理屈で理解できる範囲はとっくに超えている。そこに御父様の愛の見えない寂しさを覚え、更に恨みにまで発展し、全てを捧げて侍ってきたにも拘らずその見返りがただ足蹴にされ血の一滴まで絞り取られるままだと感情するなら、反動として言葉尻の全てを暴き出してやると思えたとしても理解できる部分もある。その元食口達の行動を批判はできても、感情的に批難することは私にはできない。こう言う説明をして彼等を説き伏せられるとは思ってもいないが、それでも敢えて言葉を挟むなら、それでも御父様は真の愛の御方だと伝えたい。真の愛の説明に、真の愛とは神的な愛だというみ言葉が何処かにあった。前にも書いたことがあったが、御父様はこの世的な印象からすればヤクザの親分そのままだ。任侠世界をどの程度知っているかわからないが、師弟の杯を酌み交わせば、どれほどどやし付けようが、徹底的に睨みを利かし反抗する気力も無いほどに痛めつけようが、完全否定して尚、親父を求める衝動を子弟の中から引き出していく。そうして湧く親父への衝動は本物だからだ。親父の為に生命を投げ出せるほどひとつになる。それが、杯を交わせば血よりも濃い繋がりができるという所以だ。それは確かに心情の因縁だ。御父様が真の愛の御方であり、私との関係をそれよりも濃いものとしたいと思われれば、それ以上に私を否定して否定して、骨の髄から御父様を慕う想いを引き出したいと思われたはずだ。日本の食口を締め付けるだけ締め付け、何倍もの実績を要求され、逆上したかのように声を荒げ怒気を強めて、頭ごなしに打ちのめす。御父様は憐憫の情を断ち切るために敢えてそのように行動されたように思える。私もそのような場面に居合わせたこともあり、またあまりの激しさにマイクの鉄の台を投げられそうで身を屈めたこともある。でもそういうときの御父様の目を私は知っている。どれほど孤独で寂しい目をしておられるか、、。裏でどれだけ悲痛の涙を流しておられるかをその目が語っている。確かに日本の食口は痛めつけられたのかも知れない。体を犠牲にすることを強いられ、心魂を犠牲にすることを強いられた。しかし日本食口の心魂を徹底的に否定されながら、霊的に生きるものを引き出そうとされた。御父様は日本の食口に対しては本当に真の愛の御方だ。この世的愛ではなく、心の安らぎを与える愛でもなく、神的な愛、真の愛で日本の食口を愛された。確かに責任者は、御父様のその想いを食口に伝え切れなかった部分があったことは否めない。心魂も心霊も幼ければ、御父様の言葉や指示を形だけ伝えればどうしても誤解を産んでしまいかねない。御父様の真意を伝え切れなかったという意味で、私も含めて先輩食口は御父様を批判する彼らを批難する前に先ず悔い改めなければならないだろう。

2013年5月22日水曜日

御母様の涙

御母様がお話されるとき、私達の前に立たれるときはいつも涙される。御父様の願いを説明されて涙され、御父様の私達への想いを口にされて涙され、私達に御父様の願いに応えるよう促されて涙される。そしてひととき口を閉ざされ、無知な私達の目の奥を尋ねながらまた涙される。御母様の涙は、人類の母としての尋常を越えた苦労の数々が流させるものだと思ってきたが、御父様が聖和されて、お話する機会を度々見るようになると、母としての苦労や犠牲の痛みがそうさせるのではなく、純粋に御父様の心情に通じておられるが故の涙であることがわかってくる。私達の前で涙を流され差し出されて、差し出されたその涙を私達は受け取る。赤子が母の乳で育つように、私達の霊的生命は御母様の涙で育つ。でもいい加減乳離れすべきだろう。御母様にこれ以上涙させるべきではないだろう。堕落したエバから生まれた私達は、御父母様によって生まれ直された。私達は御母様から生まれた御母様の愛する娘であり息子だ。肉の母以外の他人に対して、貴方は私の母だと言って甘えてせがめば、気持ち悪がられて忌み嫌われるはずだ。御母様は敢えて流される涙で私の真の母であることを証明され、御父様と御母様の子供であるから親の願いに応えて欲しいと私達に涙で訴えられる。御母様は人類の母として底の尽きない犠牲の涙を流され、降り注がれ、人類は御母様の涙に浸される。涙に浸されて御父母様の心情圏にかき抱かれる。生きた聖霊実体の役事が私達の目の前で為されている。生きた女神イシスの再来を見るように、全ては御父様の心情に繋がった御母様の流される涙から産み直される。御母様は涙の御母様だ。

今日の想い 570

意識を当て続けるとエネルギーが満ちてくる。コップから水があふれるように、或る時突然形が見え始める。真理と神霊をもって、すなわちみ言葉訓読と祈祷をもって天の父母様の意志を受け継ぎ、意識の光を当てて行く訳だけれども、しかし堕落性からくる肉心の衝動を抑えきれず、その衝動から意識放出がされてしまうことが往々にしてある。男性(天使長存在)にとっては先ず性衝動だ。性衝動はこの世の神、サタンからの偽りの愛が根底にあって、衝動として貴重なエネルギーを放出してしまうという、最近は随分変わりつつあってもやはりこの性衝動は大きな漏電のひとつではある。性衝動が、この世の人と祝福を受けた食口とどう違うか。実は、性衝動そのものは変わらない。祝福を受けて根っこは変わっても、本人の努力なしには直ぐには祝福の実りとして現れない。性衝動という性への感覚欲求は、多分に自体自覚的であり、天の願いではなく己が欲望を処理するという意味では自分で処理しようが相手がいようが誰であろうが変わりない。しかし決定的な違いは相手がいれば深みでお互いの血が混ざり、血の影響を受けてしまうということだ。それでは性衝動が他体自覚的になるとはどういうものか。天宙を主管する前に自己主管というみ言葉があるが、天の心情、天の私に対する願いをはっきりと自覚して、動機がそこから発動して意志として衝動することではないだろうか。実際未だそれについては開拓の途中でよくはわかっていない。男性の場合、行為の後は虚しさが残ることは誰もが経験している。虚しさが残るのは濃いエネルギーを地に漏らしてしまう漏電によるものだろう。受胎には外的受胎と内的受胎とがある。外的受胎は性衝動と切れない関係性があるが、内的受胎は神を求める精神衝動と切れない関係性がある。一方は性という感覚欲求への衝動であり、一方は精神というより高みへ向かいたいという霊的衝動だ。信仰生活で抑えられない性衝動にいつも振り回されて来たが、性衝動へ向かうものを霊的衝動に転換する、エネルギーの下方に向かい外的感覚へ向かうものを上方に向かわせ精神的、霊的歓びに向かわせる。自己主管することで閉ざされていたチャクラからチャクラへのエネルギーの不通を解消させて流れが良くなると、開かれた私を実感できるようになるはずだ。昇龍として、私の中を螺旋して上方に貫通させる天への霊的衝動に、天は霊的授精を施して、私は神霊を受胎する。

2013年5月21日火曜日

今日の想い 569

神様は御自身に似せて人間を創られたのだから、人間を研究すれば神様がどういう御方かと言うのがわかる。人間は心と体、すなわち性相と形状を備えた存在であるから神様も本性相、本形状を備えた御方だと言うのはその通りだが、ここでは別の角度から人間という存在を見てみると、先ず、人間は意識を持っているということが言える。人間とは意識を空間的存在、時間的存在に当てて、意識の間断なき放射でもって自我の存在を認識している。眠りという無意識の状態があるが、その状態では自我の存在を認識していない。しかし見えない自分の内面へ意識を当てることもできて、自分という存在の在り様を或る程度は見届けることもできる。人間がそのように外なる世界にも内なる世界にも意識を当てるように、神様も自らを認識する為に意識を持たれたはずだと言える。創世記第一章にあるように、はじめに神は天と地とを創造された。これは霊界と地上界の創造ではなく、神様御自身の他体自覚の創造だと私は見る。天と地、性相と形状という相対的関係は原因と結果であり、性相に留まる限りは自体自覚であり、性相の形状化はその形状創造の僅かな一歩であっても他体自覚なしにはあり得ないからだ。自分に似せた対象の創造に全てを注ぎ込もうとするなら他体自覚なしにはあり得ない。そうして神様は光あれと言われた。混沌としていた地に光を投入して秩序を創造していく。その光は神様の意志であり、意志は意識をして働きかける。人間の意識と神様の意識は比べようもないけれど、明らかに人間の意識は神様の意識、すなわち光あれと言われて秩序立て創造していった神様の意識から来ている。人間は意識という光を内界に当て、そして外界に当てて認識し、判断し、そして創造している。堕落人間の意識は自己中心の意識であって実に暗い光だが、その堕落人間が心情を転換して他体自覚に目覚めるに従い意識の光は明るくなっていく。神様の意識に近付いて行く。意識の光が創造の力なら、この世の堕落人間の意識の暗い光にどうして他体自覚に目覚めようとする心情転換された意識の光が押されることがあるだろうか。まだ我々に自体自覚と他体自覚との間で迷っているからそうなるのであって、死生決断して他体自覚への覚悟と決意を供えるなら復帰への意識の光を弱めることは無く、不可能を可能にする創造の力が働くだろう。氏族的メシヤは先祖の霊的生命、地上の氏族圏の霊的生命を左右する存在であり、永世祝福による霊的生命は氏族的メシヤである私の手に委ねられている。御父様に繋がらなければ霊的生命がないように、御父様に繋がった私に繋がらなければ彼らの霊的生命はない。その認識と霊的生命創造に意識の光は力強く当てられ続けているだろうか。

2013年5月19日日曜日

今日の想い 568

掃いて捨てるほどの思想や主義があるどころか、個人主義であれば人の数だけ思想があると言える。思想と言えるほどの洗練されたものではなくて、只の嗜好に過ぎないのだが、、。自分に取って気分がいいか悪いかが最も優先事項であり、要するに堕落的感情が優先されてそれに合う考え方を取り寄せている。食口がみ言葉に対するとき、み言葉を絶対としているようで実のところ自分の感情を満足させるものがあるはずだと踏んでみ言葉を信じている。それは絶対信仰ではなく、堕落感情に基を置いている。自分の地情意活動の舞台、すなわち心魂が私であり私の存在根源であるという我気付かない認識から離れられない。心魂の深みに霊があることを気付かないという、唯物論者ならず心魂論者だ。御父様が強く私達食口を非難されたように、心魂を霊だと認識している者達が余りにも多い。心魂を霊だと思っている我気付かない心魂論者がみ言葉の真意を曲解してしまう。自分の中に良心が立っており私はその良心の声に従う、と言うのも霊を把握できない心魂論者ならではの言い分であり、御父様が霊的精神的な意味での良心を自分の道徳的なものとして貶めている。そうなると御父様の隠されていた事実や御家庭の問題を不快に思い、御父様にすら不信感を抱いてしまう。あるいは、御父様も間違いがあったがそれでも取り敢えず付いて行くという、絶対信仰ならず相対的信仰になってしまう。心魂を越えて、霊的なもの、精神的なものを受け取り、また経験するのでなければ、御父様に向いてはいない。今の信仰的気分など、堕落世界というぬるま湯に浸かっていれば只の自己満足に過ぎず、サタンは鼻にもかけない。環境を少し変えてしまえば信仰的気分などひとたまりもなく、御父様を本質的に受け入れてはいなかったと思い知る。その時の落胆、自己の全否定、抱えきれない焦燥感を想像できるだろうか。心魂ステージに留まって霊の認識に至らない者達は、一体何を言いたいのかと相手にもしない。

2013年5月17日金曜日

今日の想い 567

基元節を超えたのに何の変化も無く、霊界からの協助を目に見えて受け取るようになるという話だったけれども、そんな様子もないと言う。食口の中にはそんな、当てが外れたような気分で、それでも変わらず離れず教会に居れば何かもらえるものがあるだろうという態度の者達が居る。籍だけは置きながらぼんやりと勝手な天国をイメージしながら、今日も何もなかった、今日も何ら変わらない一日だったと、そう思って暮らしている。何か嬉しいもの、何か楽しいものが待ち受けているはずだと思っているが、そんなものは天からは降ってこない。或るクリスチャン達が、天を仰いで雲に乗って来られる再臨のイエス様を待っているのと同じことだ。受動的信仰観に留まるどころか、乞食的信仰観にまで貶めている。御父母様の嘆き極まれりといったところだろう。献身してみ旨に捧げて歩んできたはずだろうに、初期の軍隊的生活、実績至上主義のタガが外れてしまうと、心は糸の切れた凧で、もう何の役にも立たない状態になってしまったのだろうか。大体霊界が働く内的姿勢も内的条件もなくて、どうして協助して働かなければならない義理が霊界の霊人達にあると思えるのだろうか。先ず、私に切実さがなければ見向きもされない。更にこれだけ犠牲的、或いは献身的生活をしているのだから、、とか、この人物に協助すれば確実に返ってくるものがある、、とか、霊人に対してここまで親身になってくれるのだから、、とか、そんな関係性が大切なのは地上の人間関係と何ら変わりは無い。霊界から何か降りてくるものを期待し続ければ無視され続けるだけだ。私は、はっきりと、この私の内的精誠で霊人達を活かすことが出来ると言えるものがなければならない。私が供えて差し出すからこそ、霊人達が押し寄せてくると言える内的な精誠だ。そうなると霊人達は私を放っておかない。必要ないと言い張っても協助してくるだろう。あまりにも霊界がわかっていない。霊界の捉え方が実に唯物的だ。霊界がわかっていないのにどうして霊界が把握できるだろうか。把握できない霊界がどう協助できるのだろうか。

2013年5月16日木曜日

今日の想い 566

この群れの特異で実に不思議なところは、一方の極と他方の極が混在しており、奇妙にもそれらが同じ中心、父母を求めることによって存在たらしめており、更にその存在自体の発展増殖を見ているということだ。極と極がぶつかり合って分裂崩壊しそうであるにも拘らず、いや敢えてそういう状況に否が応でも放り込まれながらも、その中から真髄を抽出して、見えなかった次なるステージ世界を創出する。それは明らかに正反合ではなくて正分合だ。食口の置かれている状況だけを見ても、割に合わなくもあり、矛盾しているようでもあり、騙されているようでもあり、貶められているようでもあり、しかし父母様への内的霊的信頼をもってその中に差し込む光、その中からスパークする光を見出そうとしている。祝福を見ても相容れない二人を敢えて選ばれたかのようだが、しかし現実そうなのであって、反発する極と極を父母を求めることでひとつになる何かが二人の間に創出される。私達の歩みの中に安定を求めたり、安定という言葉を探そうとしないほうがいい。私達が最も価値視する心情を勝ち取る為には犠牲が伴うのであり、心情と犠牲は裏表であってそれは安定とは無縁だ。今までの教会の体制を見ても、搾取する側と搾取される側があると思えるのは、普通の横的視点からすれば当然そのように見える体質的景色であって、これからは許されないとしても今まではそれを良しとされてきた面もあり、だからこそその両極の関係性から抽出される霊的真髄が教会の発展を促した。犠牲となり、その心情の精誠を天は取られたということだ。搾取すると言うのは共産主義的言葉で横的な捉え方だけれども、縦的な捉え方は侍る侍られるであって、表面的には同じ体質様相でもその霊的景色は全く異なる。私達は搾取されてきたのではなく侍ってきた。勿論その体質がいつまでも続けばサタンが介入し易くなるのも事実であり、全体の発展成長に伴って変わらないのであれば、搾取が現実となり得るだろう。一方の極と他方の極の混在、それはアベルとカインの混在であり、アベルとカインは父母を求めることでひとつになれる道がある。教会批判は外部からだけでなく内部からもある。批判が内部改革に発展するのではなく、アベルカインの関係の中に父母を求めて変わることで発展する。おかしな言い方になるけれども、御父様は敢えて相容れない二人を立ててひとつにしようとされる節が見られ、教会を見ても、敢えて他から反発を抱かせるような活動をプッシュしながらひとつにされようとされた。

2013年5月14日火曜日

今日の想い 565

批判は、批判する立場と批判される立場とがある。別に批判でなくとも、全ての行為は相手がいて成り立つ訳だけれども、それが善の行為であれば授ける立場と受け取る立場ということになる。批判すればそこで終結するのではなく、必ず寄せ返しがくる。批判ではなく進言だと言うけれども、批判なのか進言なのかはその表面的行為、或いは行為の一部だけを見ず、その動機が何なのか、発言することでどうしたいのかを問わなければならない。ブログに上げた記事は、その投げかけた対象が不特定多数であるので普通善意の進言には留まらない。そこに特定人物についての功罪や善悪を問うのであれば、それは人物評論であり悪意と取られる批判となってしまう。言うべきは言うべきだと思っているのだろうが、当の本人の前で直接口にできるかどうかを先ず自分の中で精査し、更にその上で不特定多数の影響の責任(発信する以上は確実に霊的影響を両者共受ける)も考えて、その上でなければ軽い発信が命取りになってしまうだろう。言葉であれ文章であれ撒き散らしたものは必ず収拾しなければならない。善の言葉は善の実として、悪の言葉は悪の実として、、。霊的に見れば芳一の身体に書かれた御経のように、言い連ねた文言を首にかけて披露しているのであり、更に首にかけたその文言が所構わず声を発して叫んでいる。知らない人の噂を喋りたい衝動に駆られて口にするように、批判し断罪することは酒が喉を通るような魅惑を覚えてしまうだろう。それは己が驕慢心をくすぐる魅惑だ。悪魔がイエス様を高い山に連れて行って全世界を見せた、あの手の誘惑だ。 批判が度を過ぎた者には傲慢な霊が取り付いてしまう。み言葉を通して霊的な認識が少しでもある食口なら、自分のことは棚上げして人のことを言いつらうのではなく、自分の内面にしっかりと目を向けて私が御父様の願いと向き合っているかどうかを問う方が余程重要だ。批判は人格完成者に任せておけばいい。

2013年5月12日日曜日

御父様の生き証人として

私達は御父様がこの地上におられた時を共にし、その御姿を見、その御声を聞き、その息遣いにすら触れてきた。更に御父様との父子の関係を祝福によって与えられ、その願いを受け取り、その願いに応えようとし、更には怒鳴られ、翻弄され、それでも慕い、侍り、可愛がられ、同じように泣いて、笑って、数々の心情因縁を繋いできた。私達は生きておられた御父様の生きた証人だ。御父様が聖和されたからには、この地上に、もうこれ以上の証人は現れない。私達は願いを受けながら願いに応えられずにきたのはその通りだ。しかし御父様は勝利されて真の父母として立たれた。もし御父様が勝利されていないのであれば、不十分な私達は、その失敗した数々の責任を委ねるであろう後孫の為に泣き悲しまなければならないだろう。しかし御父様は勝利された。勝利された以上、私達の歩みがどうだったかを問われるのは御父様だ。御父様が私達の歩みをどう判断されるかだ。しかし一方で、私達は勝利された御父様の証人でもあるという重大な側面がある。私達、特に一世の存在は、御父様の証人としての私をこれからどう生きるかが伝道の鍵でもある。御父様のツバキ圏内で侍らずとも、私が呼吸している同じこの地上で呼吸しておられるというあの実感は、知らずに生きた者にはわからないし、ましてや御父様が同じ空間におられた修練会や訓読会のひとつやふたつは一世であれば誰でも体験しているだろう。その実体験を貴重に思うべきだ。その時空に刻まれた紛れもない実体験を、私に群がる霊人達がどれ程欲っしているか。訓読会の読み上げるみ言葉が乾ききった喉を潤す水なら、御父様の色合いに染められた体験のひとつひとつは、彼らの霊的味覚を満足させる御馳走だ。私達は生きた証人として、御父様との出会いの数々を、御父様の心情の色合いが見てとれるほどに彼らに差し出すべきだ。霊人達が満足すれば、彼らに導かれて人々が訳知らず私達のもとに集まって来るはずだ。

2013年5月10日金曜日

今日の想い 564

御父様の聖和に合わせるように、その問題はアメリカ食口の皆の知るところとなった。教会食口に対する信頼の裏切りだと誰もが思っただろうし、み言葉とひとつになるべき私達がもっとも許してははならない状況だろうに、子女様であり責任者でもある御方自らが踏み入ってしまったと思った。もちろん明るみになった以上身を引かれた訳だけれども、その激震は全体も家庭も個人の信仰さえも大きく揺さぶった。その余震や後遺症を引き摺ったまま、今に至っている。これほどの大転覆劇に見舞わされて投げ出され、個人も家庭も取り敢えず信仰生命の綱を繋ぎとめる何かを手探りし、大方はそれよりも母艦転覆という御父様の聖和に向かわなければならないと思って問うことはなかったが、落ち着いて見て再度取り出してその本質を見極めておくことが必要だろう。み言葉と照らし合わせて、そうあってはならない、間違いを犯してはならないとは誰もが思うし、御本人もそう思われただろう。その思いが弱かった、要するに信仰が弱かったと捉えるのは簡単だけれども、私はそう短絡的に捉えられるとは思わない。御家庭のことをそんな単純な律法的教条的に捉えて断罪されるものではないと思っている。人間それぞれに背景が異なるし願われるものも異なる。要するに蕩減内容も責任分担内容も異なる。ましてや子女様だ。子女様とて人間であり特別視すべきではないという意見は外的表面的にはそうだとしても、霊的に特別な立場にあることは否定できない。その子女様はみ言葉がわかっておられない訳ではない。信仰が弱い訳ではない。ストレスもあって一時のアバンチュールを望まれた訳でもない。否定もされ、断罪もされ、御父母様のことも考え、子供のことも考え、地獄に突き落とされることも思い、それでもひとつの愛の形を選択された。それは私の位置でその選択は恐ろしすぎて取れないが、背景も違い使命も異なる位置で敢えてその選択をされたということだ。私達には、決められたある信仰の概念、堕落の概念があって、その概念世界に踏み止まって真の愛を探そうとしているが、概念世界を越えるところにこそ真の愛は関与するのであり、それは頭を振るような私の理解を越えた行動や状況を通して、救いや許しに繋がるものをもたらされることもあり得る。要するに今の私達のステージで判断できない摂理的事柄もあって、未来の私に委ねるしかないということだ。だから断罪したり、逆に子女様ですらということで自らを甘くしたりすべきではない。外的事実を捕らえて、堕落は堕落だというのは唯物的であり現実主義一辺倒だ。外的事実が優先されるなら個人の檻、家庭の檻に入れてしまえば堕落はない。芸術や科学はカインから出てきた。出てくる時は神に反する形で出てきた。後にアベルとひとつになることで芸術も神がとられ神が祝福されるものとなっている。今の銀行システムにしても最初は無いものを有るものとして、要するにユダヤ商人が証券という虚偽を出回らせて経済圏を大きくしていった。当時の金証券という胡散臭いものを善なる経済システムに変えていった。今の世に出回っている堕落的表現内容も、どう変化して神がとられるものとなっていくかわからない。御父様が三大淫女と言われる女性が摂理的重要であったように、子女様の行動が復帰とどう関わりあるのかは、わからない部分の方が大きい。今はっきり言えることは、どんなことが起こっても御父母様に対する信仰や想いを強めこそすれ、否定的に引き下がるべきではない。

2013年5月9日木曜日

今日の想い 563

いたぶられるだけいたぶられて、どこでどう間違えてこんな仕打ちを受けるはめになったのか、一向に見当も付かず、それでも今できることは、尋ねもせず言い訳もせずただ受け止めるしかない。今、子供を通しても心が痛むことの経験をしている。心がジクジク痛み、目の奥、鼻の奥の方から、心が脂汗でも流すように濃い涙が滲み出る。おそらく神様も御父様もこの経験をされたのだなあと思うけれども、経験の最中は、背を向けて遥か遠くに行かれたのか、ただ一人、孤独の真っ只中で味わうのであって、慰めの一言をかけてくれる存在は誰もいない。ここのところ曇り模様で、今日も朝から降ったりやんだりしている。外は雨が流れているけれど、私の内では血が流れている。血の涙が流れている。血の涙は濃い涙だ。透明な涙が目から流れ出たくらいで、私の心情世界は晴れることはない。血の雨が嵐となって吹き荒れるのでなければ、清算されて晴れ間が見えることはない。そうする必要があるなら私は甘受する。それを私の宿命として受け止める。他に何ができるというのでなければ、私の生まれた意味は如何なることも甘受することだ。だから私は受け止める。オドオドしながら受け止める。頭を抱えて溜息をつきながら受け止める。孤独の果てで受け止める。息も絶え絶えに受け止める。私の人生に勝ち誇った喜びは無縁だ。いたぶる方だって、悲しい目をしていたぶるのだから、、。

母の手

ゆっくり移動しながら配膳を続ける。しかし手だけは小刻みに震えていて、隣の皿を小突いてしまって無用な音を立てる。ご飯を盛った茶碗はいいとしても、汁椀は味噌汁がこぼれそうで心配になる。本人は平静を装い、気付かれないように努めている。それでも肩や腕に力が入ってぎこちなく、震えを抑えようと内心必死なのを隠せない。妻は二年前、免疫抑制剤のせいで感染を防ぎきれず、ひどい帯状疱疹を患った。その後遺症が今も残っている。時々胸や背中全般に神経痛を覚えるらしく、痛み止めの膏薬を塗っているし、両腕の震えは止まらない。私はそれでも家事、特に食事の準備は彼女に任せ、大変かどうかは敢えて尋ねない。余程のことがない限り、そして向こうが言い出さない限り、彼女の役割に口も手も出さない。本人もそのつもりだろう。体がどんなに大変で横になっていても、食事だけは起き上がって用意する。出来れば最後の晩餐も本人に用意させて、家族で食べて、そして送りたい。ちょうど映画たんぽぽのワンシーンにあったように、、。あのシーンは泣き笑いせずには見れないが、深刻でもあり、残酷でもあり、しかし美しくもあり、そして宗教的でもある。食べるということは、本来祭司的なものだと思う。常に母の手を通して食事が供えられ、父が口にし、子供が口にし、母自身も口にする。母を介して与えられたものを家族皆が消化し、身と為す。配膳している震える手や腕を見ながら、我が家の誇りはこの痩せ細った震える母の手だと思った。文字通り肉を削ぎ、細い骨に乾燥して皺だらけの皮膚を覆っただけの醜い手だが、この母の手が宝だ。母の手は犠牲を惜しまない。今にも折れそうなその手で家庭を支えている。

2013年5月8日水曜日

今日の想い 562

人を感動させることの喜び、人を活かすことの喜び、それが伝道活動の醍醐味だろう。その喜びの感覚を掴むと、伝道するなと言っても伝道するようになるだろう。しかし、人を生まれ変わらせるみ言葉の力を私自身が今実感していないと言うこともさることながら、だいたい人は悩み求めているのかという疑問が前提にある。本質的に求めていない人はいないはずだが、その自覚を持っていない人の方が多いだろう。悩み求めている自覚のない人を導くには、先ず関心のあるところから入っていって、本質に気付かせてあげる必要がある。スモールグループ活動はその関心ある部分をして繋げようとする伝道の入り口となる。しかしその辺りから更につっこんで、繋げた人を感動させ活かしていこうという熱情を持ち、祝福までの道のりを見届けるところまで持っていきたいと切に願うのでなければ、入口であるスモールグループの立ち上げにも、言われたから的な動機の弱さが仇となって入り口からのステップアップができないでいる。キックオフ(決断式)で触れられたように、牧会者任せで、そこに繋げればよしというような伝道ではなくて、私が立ち、私が祝福まで、更にそれ以降の霊的生命をも責任を持つという、私が主体の伝道になることが必要だ。今まで、どんな指示が出てどう方針が変わるかわからないといった認識が常にあって、それが伝道に対する無関心の言い訳となっていた。確かに先立つ献金要求に応えることが優先されてきた。しかしこれからはその言い訳は成り立たない。私は先ず伝道に対する意識、伝道に対する関心を高めて深める必要がある。伝道対象の意識がどうだこうだと言う前に、そこが第一の取り組みだ。良くも悪くも、これからの歩みには、今まで内的に築いてきたものがそれぞれの歩みに出てくる。それぞれで思案して伝道に対するプロジェクトを立ち上げるにしろ、或いは他の誰かそれなりに勝利した人の歩みをそのまま取り入れるにしろ、それぞれ信仰観が出てくるだろう。この特赦的七年路程のこの期間は食口誰にも等しく与えられている。そして自由に活動できる。しかし自由であるということは結果に対しては文明に責任を問われるということだ。講論の自由の原理的意義にあるように、原理を離れた自由はなく、責任のない自由はなく、そして実績のない自由はない。

2013年5月6日月曜日

私達の置かれた摂理的状況を尋ねてみて

グループは御父様を利用している。実体マルスムとしての御父様を只の宗教的指導者として利用している。もちろんみ言葉もいいように解釈して利用している。御父様の霊的勝利圏、霊的勝利圏を御父様という地上実体として現された肉的勝利圏を蔑ろにしている。グループとして特定の子女様を担ぎ上げ、御父様の御子様だから結局は収拾されるはずだと、血を分けた実の子をどこまでも非難されるはずはなく必ず認められるはずだと、そのときまで押し通そうと構えている。しかし御父母様は天地人真の父母であられ、御家庭の父子の関係の父に留まるものではなく、人類の父母であられ、天宙の父母であられる。世界復帰の道理、天宙復帰の道理に合わないのであれば、御子女様に対したとしても親としての位置を犠牲にされる。御父様が宣布される勝利は血と汗と涙の勝利であり、それは血と汗と涙による結果としての勝利でもあるけれど、血と汗と涙を犠牲にする決意と覚悟を御自身が差し出すと言う、結果ではなく意志としての勝利でもある。だから御父様の勝利宣布は犠牲を供える宣布でもある。御父様御自身を犠牲として家庭を立て、御家庭を犠牲(御子女様を犠牲)にして祝福家庭という氏族圏を、、というように、犠牲を供える宣布だ。御父様は御子女様であっても天宙の真の父母の位置で切って棄てられる。それは位置故に人情を棄ててしまわれる無慈悲な恐ろしい御父様でもある。御家庭の中から、その血統圏の中から反逆する者が現れると食口の誰が予想しただろうか。今ですら信じれないし、時間が立てば収束し収拾されると信じる食口は多いだろう。御父様と御子女様の関係、それは神様と天使長に対するアダムエバも全く同じ立場だ。天使長が巧妙にエバを誘惑したように、更に天使長は神様の最も近しい姻戚関係でもありながら、それでも反逆して御心から離れる方向へ導いていった。そして誘惑に乗ったエバは反神様、反アダムの立場に立った。エバは更にアダムを誘惑し、結局エバとひとつになったアダムも反神様の立場に立った。アダムとエバは堕落した張本人である為に復帰、即ち再創造の中心的位置には立てないから、その位置はアベルカインに移された。しかし勝利された御父様とひとつになっておられる御母様が立たれておられる以上、次世代の御子女様が御父母様とは違う方向へ顔を向けられたとしても、それでも御父様の勝利圏が揺らぐことはない。子女様如何に拘わらず、ましてやグループで滅茶苦茶にされた教会がどうなろうが、どんな迂回路、奇策を取ってでも近々地上摂理も完遂する。2020年までの七年路程は、御母様の訴え故に許された特赦的延長路程だろう。本来基元節でタイムリミットを迎え、それまでに氏族復帰、祖国光復を成し遂げて迎えるべきだったけれども、その時点で駄目であってもタイムリミットはタイムリミット、地上的配慮やプロセスを無視して地上天国はハードランディングで為される、いわゆるD-DAYだったはずだ。しかし御母様は基元節前での御父様の聖和という事態を配慮されるよう御父様に相談され願われたが故に、この延長路程は実現できた。或る意味この7年間は摂理的時間が止められた状態にある。この時空を越えた天宙的配慮を鑑みて、決意と覚悟を供えるべきだ。

伝道という私達の役割り

エバと天使長の霊的堕落が把握できていないように、アダムとエバの肉的堕落も把握できていない。エバと天使長の霊的堕落がなかったならば、アダムとエバの交わりは罪とはならなかった。しかし霊的堕落の結果、エバは堕落以前のエバとは違う存在であり、アダムはエバという肉体を被った違う存在と交わったということになる。堕落以前のエバと堕落したエバとは異なる存在だと認識しなければならない。霊的に堕落したということは霊的感性を持っていたということであり、エバに霊的感性があってアダムにはないということはありえないだろう。そうなるとアダムはアダムで天使長とエバの関係を知り、エバが霊的堕落に至ったことを知り、エバが異なる存在になったことを知りながら、それでもエバと交わったことになる。私達は霊的感性が開いていないので天使長という霊的存在がよくわかっていないし、霊的堕落の認識もよくわかってはいない。しかし霊的堕落がわからないように、アダムとエバの肉的堕落についても、私達が肉体的に一線を越えると捉えていることと全く同じかどうかは熟考し尋ねてみる余地があるだろう。大母様が先祖を遡っていけば、今の人間形姿とは随分と異なる存在様相であったと言われるように、元素の在り様にしても、鉱物、植物、動物の在り様にしても、現代と遥か太古の昔と同じだとは言えないだろうし、同じだと思うほうがおかしいだろう。そうなると思考形態、感情形態、意志の形態も現代のそれと同じだと決め付けることはできない。理念だとか、観念だとか、概念だとか抽象的事柄をもって思考するのを当然としているけれども、古代ギリシャ以前にそんな事柄もそれを用いた思考もない。思考感情意志という心魂活動領域、そのステージを越えた膨大な霊的領域に入って霊的堕落の意味を把握し、霊的見地から肉的堕落を見て、堕落論の本質を受け取れれば、堕落した血統圏と堕落と関係のない祝福の血統圏の違いを明確に、実感をもって把握するだろう。御父様は、私達が伝道しなくても、列を為して祝福を受ける時代がくると話されている。もちろんその時代がくるということは、皆の霊感が開いて己の実体を理解する時か、そうでなければ生きる為の地上的恩恵を受ける為に祝福を受けざるを得ないという時だ。もちろんその時代を迎える為の精誠として伝道が必要なのは当然であって、そんな時代が来るのであれば伝道する必要がないと捉えるのは本末転倒だ。私達は伝道を通して、み言葉が必要だと誰もが口にし、祝福を受けたいと誰もが押しかける、そんな御父様の勝利圏を誰もが目にして認める世界を創造していると言える。アダムエバの霊的堕落と地上接点の堕落が、横的広範囲な地上の堕落世界として現されてしまったように、逆に、御父様の霊的勝利を地上の勝利世界として現す、その再創造に加担している我々だということができる。

2013年5月5日日曜日

今日の想い 561

妻に指摘されて目覚ましが鳴っているのに気付き、起きて止めようと上半身を起こしたが、身体が鉛のように重い。それでも目覚ましを止めて、暫くベッドの端に腰かけて状態を把握しようとする。どうも目が回っているようだ。しかし外界がグルグル回っているのではなく、濁流に呑まれるように身体の中をグルグル回っている。目だけが血液の中に入り込んで、流れに任せて回っているようだ。外界を認識する目にはっきりと意識は伴わず、無意識の眠りの状態から身体だけが目覚めて、意識がまだ霊界の出口辺りに入り込んだ状態になった。人間は無意識の眠りの間、生霊要素を受け取る為に霊界の深みまで旅をする。しかし何らかの霊的妨害に会い、正しく旅が出来ないと不本意な状態で目覚めてこんなことになる。重い身体を洗面所まで移動させて顔を洗い、無理にでも地上への意識を取り戻させた。首筋が重だるく嘔吐感もある。こんな日は多くを悔い改めなければならない。昨日一日生きて、霊界に携えて行く何の実りもなかったということだ。些細な感謝のひとつも供えられなかったのであり、蕩減や責任分担への何の関わりも持たなかったということでもある。それは一方では私に対する期待が大きい、或いは私にしか頼れないという霊の解放に関わるものでもある。食口はこういった霊障が多くなっていくだろう。霊にすれば期待をかけるしかないのに、食口は悟らないし動かないからだ。基元節を越えれば何事もうまくいくかのような気分でいたけれども、悟らない動かない者に対しては、追い詰めて無理にでもそうさせるように霊は働かざるを得ない。地上的に考えれば何とも割に合わないみ旨の道だけれども、事実はそうであり、霊界に行けばそうでもしてプッシュされたことを感謝するはずだ。

今日の想い 560

身体が車の揺れに抗えないように、私の内面も揺れ続けて着地できない。決意して踏みとどまる着地点を見いだせないまま車は止まり、キャプテンの、私を指名する声が運転席から届く。履き古された靴を履き、ブツを抱え、扉を開けると震える足取りで下車する。歩む決意の固まらないまま現地に足を下ろしても、当然飛び込めなくて、逃げて休む場所を先ず探し始める。そうこうするうちに時間は立ち、陽が高く昇り、効率のいい夕方からと言い訳し、更に陽は翳り始め、やっと腰を上げて訪ね始めても、断りの攻勢に覚悟も簡単に踏み付けられて萎えてしまう。そうしてボウズのまま回収される。万物復帰の日々、何度そんなことがあっただろうか。あの日々の敗北感が、事ある毎に無表情な顔を覗かせて、私に纏わりついてきた。私の歩んできた動機の中には、決して明るいものだけではない、この敗北感から逃れたいという暗い動機が意志の多くの部分を占めていた。この歳になって鏡の中の自分をマジマジと見る。溜息が出る。映っている私にかつての若かりし頃の精鋭は微塵もない。目の輝きは失せていて、老いに任せて崩れていくもの、欠け落ちていくものしか見当たらない。数十年生き長らえて食べ続け、感覚が要求するものも味わい続け、それらを自身の肉とし自身の心魂としながらも、注ぎ入れ投入し続けながら私は何を残して来たのだろうか。何か誇れるものを培ってきたのだろうか。内面の中にも、周りを見回しても、何もない。報告祈祷として差し出すものが何もない。食べるだけ食べ、感覚要求も満たしながら、結局は私は私の存在維持の為だけに生きてきたということだ。今でも食べ続け、今でも感覚を満たそうとしている。存在への渇望に振り回されてどうすることもできない。妻の力ない動きが、病に疲れた暗い表情が、私の映し鏡のように共にあるだけだ。心を掴めない抜け殻の娘が、時折顔を見せるだけだ。御父様はどこに行かれたのだろう。私の御父様はどこに行かれたのだろう。幾星霜も離れた天国におられるなら、堕落の地の底でうずくまっている孤独な私を、もはや訪ねられることはないのだろうか。最近また、思い出したくも無い昔のことも度々思い出され、悲壮感、敗北感に溺れそうだ。