2013年8月1日木曜日

今日の想い 600

PREGNANTという言葉がある。妊娠した、という意味で使う場合が多いが、含蓄のある、とか、意味深い、とか、想像性に富んだ、とかという意味にも使われる。それら全てに通じる概念にすると、PREGNANTとは新しいものを生じさせ含んでいる、と括られる。要するに無から有を生じさせる創造とも言える。信仰生活する中で聖霊体験し、今までになかった情的なものを受け取って新しい自分になることは、霊的なPREGNANTと言えるだろう。聖霊体験は霊的イエス様と聖霊との霊的交わりによって受け取るということで、それは受動的な段階に留まるが、霊的新生のみならず霊肉の新生、それを重生という言葉にしていいものかどうかは議論の余地があるものの、実体み言であられる御父様と聖霊実体であられる御母様によって重生はなされ、しかし重生が重生たる為には受動的な位置に留まっていて為されるのではなく、私が意志して御父様の骨髄の中に入っていく能動的な位置に立たなければ為されない。それはどこまでも御父様を慕い侍ることに尽きる。不断なる投入だ。不断なる投入はどこまでも堕落的な自己の否定がなければ投入はできない。慕い侍り続けることで私は新しい私を身篭る。PREGNANTだ。霊的堕落のままなら心魂のステージでどれほど目新しい感情、目新しい思考、目新しい衝動が起ころうとも神様とは関係が無い。本物の統一食口なら、そんなものは敢えて見向きもせずに、肉体的心魂的には地味で目立たず、見様によっては暗い影の部分ばかりを背負っているようでも、根源の霊的なところで霊的手術を施され、心情と言う新しい霊の部分を霊的に肉付けされて霊人体となしていく。心情で肉付けされた私の霊的な身体は御父様の血と汗と涙で創られ、御父様の霊的血統圏に属している。私はこの肉身の疼き、心魂の疼きよりは心情の疼き、霊的身体の疼きを覚える。御父様の流された汗が、涙が、血が、私の霊的身体の疼きとなって叫ぶ。そうであってこそ、私が真の父母の息子、娘であると断言できるのは、肉の実の御子女様以上だ。

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