2010年9月12日日曜日

今日の想い 208

溜息しか出ない嘆息の只中で、神様の事情を想うことができるなら、そして私が舐めているこの苦しみ以上の苦しみを味わっておられる神様であることに想いが至るなら、この苦しみゆえに神様の事情を味わうことができるし逆に神様を慰めることすらもできる。堕落圏の中で神様と何の関係もなく喘いでいた立場からするなら、それはどれ程ありがたい立場だろう。この痛みや苦痛は感謝こそすべきであり、嘆息圏で嘆いたままでいるならどれだけ神様に対して申し訳ないことだろうか。しかし悲しいかな未だ堕落意識から抜けきれずに、どうしても地上的感情が魂にもたらされてそれに主管されてしまう。痛みが少しは和らいだのか、壁に手を添えながらすり足で部屋を出てきた。薬が幾分効くこともあれば全く効かない時もあるようで、顔が穏やかなのは今のところ少しは効いている様だ。他の薬を飲みに起きて来たらしく、色違いの薬を四、五錠口に放り込むとボトルの水を傾ける。折れそうな細い腕は激しく震え、ボトルの口を上手く口に固定できずに飲もうとするので、胸元に多量の水をこぼしてしまう。しかし今の彼女に取ってはそんなことはどうでもいいほど気は萎えてしまっている。それでも大丈夫かと聞くと消え入りそうな声で大丈夫だと言う。その気丈さが彼女の良い面でもあり悪い面でもあるけれど、気丈さ気の強さと頑なな心とは裏表であり、頑なな内面様相は病の癒しに必要な柔軟なものとは相反する性質があって、それは身体を硬直化させてしまう。そんなことを思いながら、しかし決して口に出すことはできないでいる。それでもひと月以上に渡って痛みを味わいながら、明らかに彼女から削げ落ちたものがある。断食の日数を重ねていくような、そんな面影を苦しい表情の中にも見ている。彼女は彼女なりに内的ステージを上がっているのを見ることができる。痛み苦しみの中でありとあらゆる想いを錯綜させながら、やがて一点の光に導かれていく。それは絶対信仰の基準とひとつになることを教える内面の灯台の灯だ。自分に取って信じられることのみを信じるのではなく、信じられないことを敢えて信じる事に信仰と呼べる姿勢があり、その線を越えてこそ絶対信仰への一歩を踏み出したと言うことができる。神様を信じ霊界の存在を認め、御父様を再臨のメシヤだと認めればそれで信仰は完成するのではなく、ピンからキリまでの信じる程度があって私の認識基盤の多くは地上的堕落的なものに拠っている。その基盤を否定して壊しながら、み言によるものを基盤とすべくそこに信仰の力を注いでいかなければならない。

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