2010年9月23日木曜日

今日の想い 213

私には悔い改めるべきことが山ほどあるに違いない。ひとつひとつの事柄を拾いながら、反省すべきかどうかの判断を立てることはできる。しかし問題は、その事柄に関して悔い改めに繋がる感情が伴わないことだ。申し訳ない感情を発し、悔い改める衝動が私の中で突き上がらなければならないのに、それがないと言うことは意識化に於いて私の悪の在り様を正当化している。私は意識下に於いて言い訳をしている。それなりに裕福であり健康であり、幸せな気分で毎日を送るということをひとつの基準ラインとして勝手に決め付け、それ以上であれば喜びと共に感謝を捧げ、それ以下であれば嘆きながら不満感情に陥る。その感情次元から離れることができなければ、いつまで経っても悔い改めに至る門も開かないだろうし、その更に先にある心情圏への門に辿り着くこともできない。幸せな気分に留まることのみを指し当たっての願いとして毎日を送るなら、み旨を知らずに暮らす人々と何処が違うのだろうか。結局は何も変わってはいない。御父様を口にする只の堕落人間の魂に留まったままだ。私が気付くまで、私の中で完全否定されるまで、いつまでもどこまでも果てしない試練は続いていく。私の感情を私という個人や私の家庭に留まらせるべきではない。私の感情は氏族の幸せを想い民族を想い国家を想う。私の魂が個の想いを突き破り家庭の想いを突き破ってこそ、為に生きる道理を学んでいると言えるだろうし正しい姿勢でみ言に対していると言える。私は敢えてこの今の感情を否定しなければならない。問題を抱える子を想い、病に沈む妻を想う感情だけを魂に満たしているけれど、その執着を敢えて否定して、氏族をより想い国家を想い、そして勿論神様御父母様をより想う私にならなければならない。私はこれ程に遠回りしながら、やっとかすかに、全うな食口の在り様に気付かされる。御父母様を心から慕い侍りながら、自分の家庭を犠牲にしても血と汗と涙を流す食口の輝きが、今更にして私には眩しく映る。私にはどれほど悔い改めるべきことの多いことだろう。

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