2010年9月15日水曜日

今日の想い 211

若くて健康であった日々を振り返り、あの時分に戻りたい感情を募らせ、逃げることができない今から逃げることだけを意識の大半にもたらすなら、決して御意に沿うているとは思えない。非情のようだけれども、こうなることを選んで地上にやって来たとも言える。こうなることを望んで今日までを生きてきたとも言える。誰か他の存在に、この運命を押し付けられ追い遣られて地上に生まれたのではなく、私が意志して選んで今の今がある。私という存在の根源を堕落人間は知らない。魂の活動そのものを私として認識したままでいる。魂の奥にある隠された、私は私であると言える自我存在を認識してはいない。自我の認識に至らずに魂の活動を私だと思っているから、魂に織り込まれている堕落的な要素をも含めて私であり、罪を認識することができずにいる。子供の頃は成長させる高次の霊的存在が働き、その気分の中で子供時代を送り、思春期には生殖を司る高次の霊的存在が働き、その気分の中で青年時代を送るのであれば、壮年時代には壮年時代に関わる高次の霊的存在が働いているはずであり、その気分が若い頃の気分を羨むだけの気分だとは思わない。気分として歳を重ねた悲哀だけで壮年老年を送るなら、正しく人生を認識してはいない。そのように、健康な時期には健康な気分のなかで内的霊的に或る力を培う願いが込められているのであり、病を通過する時期には病の気分のなかで別様の内的霊的力を培う願いが込められている。若ければ神様の恵みを受けていて年老いれば神様から見放されているとは言えないように、健康であっても病の中にあっても、種類は違えど等しく神様の恵みは受けているし、それぞれ違う側面の神様の愛を受け取り実感することができるはずだ。人情として羨まれる立場より、人情として不憫な立場でこそより神様を感じることができる。神様御自身が最も不憫な立場で気の遠くなるような復帰の歴史を尋ねてこられたからだ。

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