2010年9月18日土曜日

闘う君へ

私達は打たれることでその心情を試されている。魂の在り様として堕落的なものが見え隠れするのは仕方が無いとしても、内外の、あまりの大きな試練に辟易して恨み言のひとつふたつをぶちまけたとしても、それでも最終的には親なる御父母様、神様の事情を優先し、あなたは御父母様の息子であり娘であると言わしめる心情を供えたなら、それは祝福として戴いた神様の血統圏から外されてはいないと証明される。だからこのD-DAYまでの内外の試練は、それを阻止しようと今までの比ではなく執拗に負い被さる形で責めてくる。前後左右、全方向から打たれ続けながら、それでも私は神様の息子娘であると断言し、御父母様神様に対する子としての心情を更に深めるなら、サタンは屈服せざるを得ない。しかし敢えて言うまでもないが、戦いは益々過酷を極めていく。決して生易しいものではない。信仰を失う者も出てくるだろうし反旗を翻す輩も出てくる。この戦いを切り抜けていく為には我々はどういう信仰態度が必要だろうか。絶対信仰はその通りだけれど、絶対信仰を念仏のように唱えていても絶対信仰の基準とひとつになることは出来ない。40年近い歩みの中で私が言えるとすれば、ひとつは謙虚な姿勢であり今ひとつは攻めの姿勢を失わないことだ。日本人としての背景がある為、クリスチャンの家系に見る罪意識が備わっている訳ではない。私に罪があると理解するのと罪の意識とは異なる。内的在り様が異なると言うことだ。み言を学んだからといって一朝一夕に備わるものではないし、家系、霊的背後としての積み重ねで備わるもので、であればこそ欠ける罪意識を補う謙虚な姿勢は必ず必要だ。攻めの姿勢というのは受身、受動的護りに対しての攻めの姿勢ということで、ビジネスに於いても攻めは最高の防御だと言う様に、敢えて試練に曝されないようにできるだけ影を潜めていようと背を丸めると、ここぞとばかりに霊的に挑まれる。試練は機械的に現れるものではなく、霊の挑戦を受けるのであって自ずと霊の魂を相手にしている。背を向けて戦いを避けようとすれば相手は余計に付け込んでくる。決意と覚悟を供えて、背を伸ばし顔を上げ堂々と天の血統圏にある威信と誇りを輝かせて対する意識を忘れないことだ。喧嘩でもはったりが功を為すように挫けそうになったら声を張り上げることだ。相手が攻めれば攻めるほどより信仰は強くなり、より御父母様とひとつになると見て取ると、相手は屈服する。

http://www.youtube.com/watch?v=rgBoyDCJEi8

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