2010年9月13日月曜日

今日の想い 210

御父母様の勝利圏を頂いて、私達は自分の名で祈ることを許されたし、祈祷は報告祈祷として供えられることとなっている。日本で活動していた時に、兄弟達の祈りが耳に届くのに任せていると、その祈祷内容の高さに驚いたものだ。自分も背伸びしてその基準に合わせようとするけれど、内的内容が伴わないくせに表面的に繕っても続く訳がない。かえって空しくなってくる。かと言って、兄弟たちが地を叩き涙を流して悔い改める立派な祈りに相応する生活態度を示しているかというと、意外とそうでもなかったように思う。祈祷内容と生活態度とのあまりのギャップを見ながら、祈祷している自分に酔っているだけなのだろうかと感じていた。本来なら祈祷内容に必死で自分を合わせようと、身悶えする摂理的期間が必要だったと思うけれど、私も含めて多くの兄弟は祈祷内容と自分との乖離の為に遠回りの個人路程を歩まざるを得なかったように思う。言葉にすれば責任が伴うけれども、祈祷で口にした言葉と私の在り様が一致していなかった。神様に対して偽りの態度で接したことになり、祈祷も自分も貶めてしまう。全体の前での公的祈祷は別として、より地に足を着けた報告祈祷が成せることは大きな恵みだ。報告祈祷を通してより神様を身近に感じることができる。報告内容があまりにも程度の低いものであったとしても、しかしそれが偽らざる自分の内的実情だ。大切なことは確実に祈祷を重ねながらその報告内容が次元を上げていくことだ。報告祈祷を通して内的霊的次元を上げながら、実態の自分も内的霊的に成長していくことだ。そして報告すべき起こった出来事、感じた感情、意志した行動に意識的に光を当てながら、神霊の係わりや善霊の働き協助をしっかりと認識することだ。すべての事柄の背後には霊的なものが隠されている。霊的な活動に自分に働く神様の意志や心情を見出すことができ、そして自分に関わるサタンの企みも見ることができる。

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