2010年9月25日土曜日

希望の実体

働いて、働いて、そしてうまい飯を食う。うまい飯が食えれば美味しいお茶が飲める。生きて、とにかく生きて、ひたすら私の人生を生きることで喜怒哀楽の詰まった生涯を愛おしく見渡せる。そして彩られた愛おしい人生のキャンパスを携えて、生まれる前の故郷に帰っていける。全てが愛であり、全てが美しかったと言えれば最高の旅立ちだろう。一日の終わりにお茶を啜って安堵の吐息を洩らす時が、一生を終えて旅立つ時の最後の吐息をイメージさせる。一生懸命に生きることだ。とにかく一生懸命に一歩を踏み出し続けることだ。生きることの意味を問う間にも生きて時間は流れていく。意味を納得して生きるのではなく、生きて意味は後からついてくる。明日の一日は誰しもが体当たりであり、明日の結果がその日の意味を教えてくれる。エバの問題は、目が開けるという自己自覚を愛より先に欲した。意味を納得しなければ動かないというのは堕落したエバの在り様と同じだ。自覚より愛が先になるべきだ。精誠を供えることを前面に押し出すべきだ。一生懸命を前面に押し出すべきだ。それでこそ堕落圏を超えていける。苦労して、苦労して、苦労から逃げることなく甘受し続ければ、全ての苦労を吹き飛ばして余りある神様の慰労を受け取れる時が来る。神様の慰めを受け取れれば光り輝く祝福にあずかれる。高次の愛が滝のように私に流れ込む。人間は本来そういう存在だ。直接的に愛を受け取れる神様の愛の実体対象だ。紆余曲折しながら遠回りに次ぐ遠回りをして、しかしどんなにさまよったとしても確実に愛の本郷が用意されていて、そこに必ず辿り着く。だからどんな人間であっても希望を失う必要は無い。私達が人類の希望の実体対象として証しを立てれば、人類は目が開いて自分が希望的存在であることを悟る。見せることができる外的希望も大切なのかも知れないけれど、どんな事情圏環境圏であっても生き延びることが出来る内的霊的希望はもっと大切だ。

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