2010年9月3日金曜日

今日の想い 206

み言葉の中に、真の愛の中ではどんな病気でも治ると言うのがある。家庭の中に病が入り込んでいる私に取って非情に重いみ言葉だ。それは家庭の中に真の愛がないと言うことを意味している。病に沈んでいると言うことは未だ堕落圏を抜け出せない現実があると言うことだ。堕落的思考であり堕落的感覚であり堕落的行動のままなのだ。その事を指摘してその意味を理解するようであればとっくに病は遠ざかっていたことだろう。今の状況では指摘されること自体に反発感情を生じさせる。病に対して受動的な態度しか取ることができない。直りたいという思いが強ければ強いほど処方された薬に頼り安静を第一としてしまう。そのような対処する意識には受動的なものしか見出せないだろう。能動的な意志で病に対するには、覚悟と決意を差し出す必要がある。御意であるなら生涯をこの病と付き合い、命を縮めることも辞さない覚悟と決意を差し出す。健康な身体で果たすべきみ旨が私にあるなら良くなって当然であり、病に沈むことが御意であるなら敢えて良くなりたい執着の思いは邪魔でしかない。私はその想いで清平に行った。生きてみ旨を果たすのが御意なのかこの病で死ぬのが御意なのか、はっきりさせる為に行った。40修三日目に激しい動悸が止まらず死の淵を彷徨いながら、最後の覚悟と決意を差し出した。私は私なりに病に対して能動的態度を取ったつもりだ。今の妻に私の証しは私にしか通用しないという壁を立てている。妻が良くなり元気になってくれることはその通りだけれど、それ以上に夫婦としての魂の一体化が未だ為されていないことに悲しみを覚える。慰めあい労わり合うことの方を妻は望んでいることは解るけれど、そんな表面的なことで魂が一体化されるとは思えないし、真の愛がそこに介入されるとは思わない。真の愛が、愛と聞いてイメージする愛とは異なるものであることを薄々とは感じているけれど、その一面として堕落人間に取っては厳しく過酷な要素を含んでいる。為に生きることが安逸な場所で施しを与えるようなことではなく、犠牲的な位置で更に自分の足場までも与えることであるなら、我々が思う愛のイメージを超えている。

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