2011年2月25日金曜日

今日の想い 265

飛行機が着陸態勢に入るために高度を下げていく。右肩を大きく傾けると機内の小さな窓の向こうにラスベガスの光の海が広がる。夜な夜なきらめき波打つ光の海は、シンシティーの罪と穢れを被い尽くしているようで、光の覆いの下にうごめく醜さに誰も気付かない。ここに初めて訪れた時は何とも言えない独特な空気の重さを感じて、大気の深海の底を潜っているような、そんな気分がした。今回で三回目だけれど、その間の御父様は何度も何度もこのラスベガスを訪ねられ、精誠条件を立てておられる。御父様が滞在しておられるので、この地も清まったはずだとみんなは言うけれど、私は素直にそうは思えない。ここに訪ねる者達の大半は堕落的な欲絡みの遊びに身を預ける。けっしてギャンブルだけに留まっている訳ではないだろう。持ち寄りもし、肥えさせもした悪の因縁、悪の霊達の吹き溜まりがこのラスベガスだ。見えないもの、見えなくていいものまでも御父様は見させられ、私や普通の人間が穢れの雰囲気を感じる以上に、その場のうごめく霊達があらゆる告白を御父様に迫って吐露してくる。前に呼ばれて私が御食事の配置をしている間、御父様が急に入ってこられて私と目が会ったとき即座に視線を落とされたことがある。私の背後の霊達から視線を削がれたのだ。タバコをを吸わない者が、ギャンブル場でタバコの煙が染み付いた独特の異臭に辟易するように、見たくも無い霊達の溜まり場でそのように見えておられるはずだ。そして更に、私などが触れるべきではないのかもしれないが、このネバダの地は尊い血を既に吸ってしまっている。因縁の地を訪ねながら、この地を愛し、この地で精誠を捧げようとされるのを敢えて御父様は御自身に課しておられるようだ。恩讐を愛して愛して、更に愛される御父様がこのラスベガスに滞在される御父様だと思う。食口が御父様の内面を尋ねるのでなければ、どこの誰が尋ねて、お慰めして差し上げたいと思えるだろう。

2011年2月22日火曜日

今日の想い 264

いつのまにか空を見上げることを忘れ、犬の様に地面を嗅ぎながら塵を漁ろうとしている。どこまでもどこまでも空高く舞い上がって行く筈だったのに、そしてあの青い空に吸い込まれて溶け込んで、果てしなく大空を広がっていく理想に向かう自分が憧れだったのに、知らぬ間に私の魂は内に内に閉じこもってしまい、僅かの隙間から空の青を眩しそうに眺めているだけだ。御父様の理想を自分の理想として追い求め、耳パンをかじりながらも夢を味わい、チグハグの靴下でも笑い飛ばし、粗末な装いも誇りとしながら、明るさと微笑みを日焼けした顔に絶やさず歩んでいた。あの頃のみんなの共有していた想いは、時を経るに従って大きくなっていっただろうか。ひとり欠け、ふたり欠け、私の中の理想への憧れもその度に欠けていって、強く強く自分に言い聞かせなければ着いて行くのさえやっとで、息も絶え絶えながら歩んできた。それでもそんな我々が踏ん張ることで、統一の群れの裾をサタンの荒波に侵食されずにここまでこれた。最終路程の銅鑼の音を響かせ戦意を無理にでも高めながら、御父母様という神輿をみんなで担いで最後の峠に向かっている。私達は目標地点を目前にしながらも、と同時に崖っぷちに立ってもいる。多くの食口が疲れ果てて霊的な目が霞み、顔を上げることも出来ずに高みにそびえる登頂地点を確認もできない。崖に足をとられながら為す術がない。みんなが疲れて自分のことで精一杯なのはよくわかる。隣の食口が冷めた目でみ言葉をなぞらえ、霊的にはふらふらで信仰生命さえ危ういのに、そんなのに構ってもいられない。自分さえ危ういのだ。だけれども私達はそれでも御父様の息子であり娘だ。自分の安全圏を確保しておいて隣の食口に声をかけるのは御父様の在り様ではない。自分は後回しにして、自分の家族や子供は後回しにしても、隣の食口に声をかけるべきだ。御父様が御子女様を優先したことがあるだろうか。御家庭にあれ程の問題を抱えながら、それでも先ず食口を愛された御父様ではなかったか。だからせめてみんなで声を掛け合うべきだ。目立たず寂しく佇む兄弟を無視すべきではない。声のひとつもかけ、笑顔のひとつでもかけてこそ私は食口のひとりなのだ。青空を見上げることをもう一度思い出そう。青空に広がる私の理想をもう一度取り戻そう。私の魂はあの青い空にある。

2011年2月20日日曜日

距離を置く食口へ

自分を教会の内部にいると認識しようが、或いは教会と距離を置いた外部にいると認識しようが、御父様に取ってはさして変わりはないだろう。教会の中にいるから救われて、外に出てしまえば救われないと言う様な、そんな心の狭い御父様ではない。人類を救い、霊界や神様まで救い、そしてサタンまでも救われる御父様だ。教会から少し距離を置いて批判のひとつふたつしたところで、少しは関心を持っているらしいと思われる程度だろう。距離を置いた自己主張の強い娘や息子も、必ず帰って来るという確信を御父様は持っておられると思う。しかし問題は御父様がどうされるかではなく、本人自身に掛かってくることであり、言責や行動責任を本人が抱え負わなければならないことにある。自分の本心から出た嘘偽り無い言葉であり、行動なのかと言うことだ。誰が裁くのでもなく私自身が私を裁くのが原理原則だ。誰かに裁かれるのであれば、私は間違っていないと言い張ることができるだろうし、曲げない自分だけは信じてあげられるという安息圏を備えている。しかし自分が自分を信じられないと言う事になると私の存在の基盤は何処にもない。地上に例を取るなら、住む家が無いどころか食するものも無く、呼吸する空気にも事欠くような状況だ。或いはあったとしても食べるに口が言うことを聞かず手が言うことを聞かない、吸いたいのに吐こうとし吐きたいのに吸おうとするようなものだ。地上だけであれば死ねば全てが無になって終るけれど、私の霊は死なないし終わりを知らない。距離を置いて御父様を否定し批判する食口に私が一言伝えることがあるとするなら、良心がどれ程恐ろしいかと言うことを何としてでも知ってもらいたい。原理が正しいかどうかを、それぞれの価値観を装った言葉で論議する意味は全くない。原理に合い、御父様の語られる通りに御家庭が為されているかを判断し論証する物差しを、誰も持ってはいない。だから原理の正当性を述べ、御家庭の状況を説明したとしても、たとえ納得して帰ってくるとして、それで貴方の救いは担保される訳ではない。はっきり言えることは貴方の良心が貴方の全てを決めると言うことだけだ。貴方の良心に問うて御父様を受け入れないと言うなら、それ以上何もできない。しかしもしそこに嘘偽りがあるなら、御父様は赦しても貴方の良心は貴方を赦さないだろう。貴方に対する御父様の傷みはそこにある。御父様が負って済むのであれば、代わって犠牲を負われることに何の躊躇もされないだろう。貴方の親であり親父だと、貴方に諭している貴方への言葉が御父様という言葉だ。御父様は他の誰でもない貴方の御父様だ。それを受け取らずに何を受け取りたいのだろう、と私は思う。

嘆息から解放へ

被造物が嘆息しているように、み言葉から受け取るものと現実とのギャップに嘆息しているのが我々だ。被造物は真の主人を失い嘆息してきた。被造物が神様の身体であるなら体の主体である心を失ったまま、さまよい続けてきたのが被造物(宇宙)の姿だ。私の今の現実がさまよい続けてきた宇宙とリンクしていて、被造物の嘆息圏を私の置かれた現実の中で味わい生きている。宇宙の嘆息圏が解放されることが私の嘆息的現実から解放されることに通じ、逆に私がこの現実を解怨して嘆息圏から飛び出ることで、宇宙の嘆息圏を解放もしている。その意味で宇宙と、私の現実や人類の現実は繋がっている。そしてこうも言える。身体である宇宙に対して神様が宇宙の心の位置に立たれてもはや離れることは無いと言うことは、リンクしている私の心にも絶対的中心が備わったと言うことであり、宇宙が解放されるように私も解放されると言う結論が御父様の勝利宣言と共に確定された。だから現実として嘆息を引き摺っていたとしても、人類すべてが億万歳の位置に立っていると言うことだ。嘆く思いに身を預けるのではなく、私の感情を億万歳の位置に立たせて解放の歓びを中心的気分で生活すれば、私の魂の解放は加速度的に早まっていく。自然から受け取る感覚輪郭を飛び超えて、自然の内面を掘り下げながら、解放の歓びを探し出してくる訓練をすべきだ。花をただ美しいと他人事のように受け取るのではなく、花が生きて私に語りかけ、解放された花の感情を私の感情として共鳴させ、魂の刺激を体感するまでになれば、霊的感性は一度に開いていくだろう。理想という霊的事柄を魂に漲らせ、更にその魂様相が表情に行動に溢れてくれば、み言葉を知らない者が私に対する時、自分には無く見たことも無い光り輝くオーラを感じ取って、理由もわからず興味を覚えてくるはずだ。近くによって接すれば、真の愛の香りもかぎ、真の愛の味も覚えて、真の愛に酔いたいと引き込まれていくはずだ。

2011年2月19日土曜日

観念を考える

人間は何らかの観念を持ち、その観念の中で生きている。しかし私の中のみ言葉に因らない観念は偽りの観念であり、偽りの父母に従いながら育てていった観念だ。神様が初めに全ての環境的なものを創造されてから、土と水と空気で人間を創られた。その時の人間はゼロ点であって、人間は何らの観念も持ってはいなかった。今の人類はそのゼロ点に立ってサタン側の偽りの父母から受け継いできたものを否定して、新しく真の父母を起源とするものを私から出発させないといけない。そこには意味も存在も観念も、伝統も文化もない。ゼロ点からの再創造の出発だ。私が祝福を戴いて血統転換されて、真の父母に繋がる私であると認識されてから、私自身の再創造が為されてここまで来ている。内面は変わったけれど肉体は過去と同じ肉体だと思うのであれば、その思いは偽りの父母から来ている認識だ。内的なものが外的なものを産む。内的なものが原因であり外的なものは結果だ。だいたい七年も時を経れば人間の全ての細胞は生まれ変わっていて、七年以上前の内的な在り様を原因とした肉体細胞は存在していない。ひとりの人間に於いてそれが言えるように、家庭に於いても同じことが言えるだろう。家庭の中心に御父様を戴いて回転するようになれば真の家庭に似てきて当然であるだろうし、その確信を備えて中心をぶれさせないことが大切だ。大きくみれば自然にしろ宇宙にしろ、偽りの父母が今までは中心にあった訳で、偽りの父母を中心とする堕落人間の堕落的観念で自然や宇宙を主管してきたということができる。御父様が話されるように、自然を把握し宇宙を把握する数理としての乗除加減は堕落的なものからきている。本来の数理に立脚して把握し主管すれば、かつての自然の在り様、宇宙の在り様が死んでいたと言える時代がきっと訪れるだろう。自然や宇宙、それ自体では背後に神様の意図があるにはあるが未完成の状態だ。地上存在の人間の観念をもって背後の意図を認識し、包括し、把握して関わることで初めて完成に届く。自然や宇宙は人間の中で完成し、頂点に達する。自然を見て称えるのみならず、自然に息を吹き込み生命を与えるのが本来の人間だろう。そう見ればロマ書八章22節の被造物の嘆息の本当の意味が見えてくる。

今日の想い 263

子供が小さいときは、好き放題、遣り放題の我が子に対して戒めもし、それでも聞かないようなら恐れさせもする。子に対する厳しい態度も、子を想う親の愛故であって、憎くてそうしている訳ではない。み言葉の中には恐れも抱き、裁きと受け取れるものもあるにはあるけれど、全ては食口を想い、人類を想う御父様の愛からでた言葉だ。御父様の裁きの言い回しを受けて、卑屈になったり距離感を感じたり、減少感を感じたりする必要は全く無い。子供がだんだんと大きくなって、感情を込めて厳しく言い付けたつもりが、受けた子供は一呼吸でも置いて、逆に親を心配する言葉を冷静にかけてくれたりする。親は肩透かしを喰らって、どう結末をつけて良いのやらわからずにうろたえる。そんな時に親は子供の成長を実感として受け取る。親は子供の成長を見て喜ぶものだ。御父様もきっと私達の成長を見て喜ばれるはずだ。御父様だって言葉とは裏腹な想いがありながら、それでも躍起になって怒りの言葉を吐かれるときだってあるだろう。子供に出て行けと言いながら、本当に出て行って欲しいとは露ほども思ってはいない。子供が成長したら、その辺りの親の想いの逆説をちゃんと受け取って行動することを要求される。私達が御父様に接する時も、いい加減幼い信仰を返上して、親としての想いをちゃんと受け取れる成長した信仰を見せるべきだろう。言葉の表面的なものだけを丸受けして行動することで、後で御父様の願いとはチグハグになるようなことはないのだろうか。私はそんなことが御父様の周りでも起こっているように思えてならない。ここまで来て思うのは、私は私の責任分担だけを全うすることに集中していれば、後の事は神様が主管されるから私は関知すべきでないと言うのは、今の今、本当にそれでいいのだろうかという気持ちがあって胸騒ぎがする。私達が全体としてサナギを脱皮できるかどうかを今問われているように思える。

2011年2月18日金曜日

今日の想い 262

たとえ一日だけの生命であってたとしても、地上に送られて地上生を生きることは、霊的な存在で有る以上何にも換え難い貴重なことなのだろう。たとえ一生を痛みに煩わされて生きるよう運命付けられているとしても、それでも地上に送られるときは地上への希望に胸を膨らませて足を踏み入れるのだろう。泣いたり笑ったり、悲しんだり怒ったり、魂の変幻万化を味わいもし酔いもしながら自分を認識し、愛の何たるかを学びながら自分の根源である神様を体感する。そうして生きる体験それ自体が宇宙的な価値があるはずだ。地上生を生きるとは明日の事さえ見届けられずに生きると言うことだ。私の感情は変化に対する躊躇があって安逸を貪ろうとするけれど、私の自我は明日が見えない刺激を望み、明日を創造していく欲望を自我の本性としている。自我に取っては明日がわからないから進んでいくのだ。見えないところ、わからないところに想像もしなかった愛の形がまどろんでいる。暗闇の中に内的霊的な開拓を挑んでいけば、神様の真の愛を掘り当てることが出来る。人間の、尽きない更なる愛への希求が期待感となり衝動となってこの世に生まれ出でたのだ。この堕落世界に染まらず、子供の頃の純粋無垢な目の輝きを保ち続けるなら、サタン的なものと取引せずに愛を愛として受け取ることが出来ただろう。しかし多くの魂は堕落的な色に染められ、自我を見失い、更には存在することすら呪いながら生きている。誰もがみんな御父様に繋がらなければ救いはない。血統転換されないなら存在すら自ら否定せざるをえない。今地上に存在する全ての人間は、この終末と呼ばれる時代に生まれ合わせている。全ての人間が背後に群がる夥(おびただ)しい霊の救いを預かっている。終末の時代に生まれ出でた意味はそれぞれが終末観を持たなければならないと言うことだ。私は関係ないと本心から言うなら、この時代に生まれ出でるべきではなかったのだ。御父様が話されるように霊界の声に従わなければ必要ない存在として即連れて行かれるだろう。摂理完結までの最後の期間、どんな者でも終末観に喘ぐようになる。喘いでのた打ち回って真の父母を求めざるを得ない。その時の内的霊的準備を、御父様を知る私達食口は用意できているだろうか。

2011年2月17日木曜日

今日の想い 261

私は御父様を信じているだろうか。確かに私は御父様を信じている。信じて思考に御父様のみ言葉を土台にし、行動に御父様の願いを動機付け、そして感情に浮かんでくるものから御父様との因縁を探してきた。では私は御父様を慕っているだろうか。歩みを積み重ね感情に刻まれてきた因縁が、私の中心的な気分ではある。確かに慕ってはいるけれど、御父様のことが心配で心配で居ても立ってもいられないと言えるかどうかは疑問だ。その疑問を抱える私の位置が御父様との距離なのだろう。私はみ言葉の位置ではない、過去生から受け継がれている気分の落ち着く地上安全圏で御父様を眺めていることの方が多い。そしてそれに執着してもいる。み言葉を土台にした思考の結論は、やがてそれが崩れ去るものであることを良く知っている。それでもその落ち着く気分を捨てることが出来ずにいる。その安全圏で私を脅かす時、即ち困難や問題が私の前に立ち塞がる時、その時は否が応でも御父様を呼び求める。み言葉の位置に立とうとし、地上的気分を捨て去る決意と覚悟を差し出す。要するに脅かされなければいつまでも堕落圏に留まろうする私がまだいると言うことだ。完全な地の底の堕落圏ではないにしても、今の自分の位置から飛び立とうとはしない。御父様を慕う想いと、それに反する自分の位置に留まろうとする気分がある。それが私の中で常に拮抗しており、困難や問題が沸き起こるとき表に出てきて私は二者択一を迫られる。そういう場でしか慕う力を強く出来ない私であるなら、困難や問題こそが今の私を御父様の心情圏に入らせる門番だろう。困難や問題に対して真正面から挨拶してお手合わせを願い、心情圏への門を一つ一つクリアしていくしかない。本当はそんなのを待たなくとも、御父様の心情圏に直行できる道がある。絶対信仰、絶対愛、絶対服従の道だ。しかしその心情圏への高速道は完全な自己否定に立たなければ見えては来ないのだろう。今の私にその概念は形を整えていない。御父様を慕い、御父様に侍り、御父様の願いに相対して歩んでいるようで、実はあらゆる生活習慣、行動習慣、思考習慣の隅々まで堕落的な要素が侵入していて、それに頼って生きている。未だ浄化されない堕落的な私の血の在り様が、この身体を巡っている。もし聖なる剣で一刀両断されて、この堕落の血が一滴も残らず流されて、肉の生命は失うとしても霊の生命が御父様の心情圏に届けられると言うなら、願い出てでもその沙汰を望む私がいて行動するだろうか。

2011年2月15日火曜日

今日の想い 260

決して安易な問題ではない。行くべき道、為すべき事がはっきり決められ、その通りに外的に歩んでいれば内的なものも自ずと願いの方向に向いていたが、今の問題の複雑さは内的なものを主体に置かない限りは外的な行動が取れないところにある。これまでは受動的な立場で何の迷いもなく歩んでこれたが、今は能動的主体的な立場に立たされている。私が主体的に行くべき道、為すべき事を判断し、決断して進まなければならない。旧態依然の、命令されるままに歩むと言う姿勢を金科玉条とするなら、これからは右に左に振り回されて次第に中心軸から離れていく自分を見ることになる。お父様の言われる通りに付き従っていく、それは当たり前のことだと誰もが思っている。だから取り敢えずは御父様の願いを中心に括られてはいる。しかし御父様の言葉の全て、願いの全てを受け取って行動しているかと言うと、私の理解が許すものを受け取っているとしか言えない。食口であるなら誰も御父様の事を心配しない者はいない。しかし御父様にすれば摂理があり全人類を救うことを最優先される。御苦労されておられる御父様の為にという想いと行動が、御父様の全人類を救う条件を阻んでいると言うことも有り得る。近い者が恩讐だと言われる所以だろう。沈殿し静まっていたものが寝る子を起こしたように掻き回され、濁って混乱している今の状況で、これが正しいと言ってノロシを上げ誰もがそれに従いえる行動は無いと言っていいだろう。それぞれが自分の責任で行動し、結果に対しては私の信仰生命をかけて収拾すると決意しなければならない。周りを見ながら私の行動もそれに倣うような者であるなら、私の存在意義は無いに等しく吹き飛ばされても当然なのかも知れない。信じる信じないの踏み絵ではなく、貴方はどう行動するのかという踏み絵を私に差し出される時が来る。その時、頭の先からつま先まで犠牲精神に貫かれた私の行動であってこそ、それを御父様への精誠として差し出すことができる。誰も答えを示してはくれない。しかし答えは必ず私の中にある。

2011年2月14日月曜日

バレンタインデー

アパートの裏口から出ると、左後ろの方にもうニ棟ここと同じ高層アパートが並んでいる。最近は朝六時には店に行くようにしているが、以前は従業員が入ってくる半時間前の十時頃に店に出かけていた。そうすると左後ろのアパートから大通りに向かって、いつも同じ時間に歩いて来るカップルに出くわした。別に声をかけるでもかけられるでもなくただ遣り過ごすだけだったが、おそらく彼らは散歩に出かけていたのだろう。二人とも優に八十は超えていると思えるが、おじいさんはおばあさんの手をしっかり握って、どちらも背が曲がりそのため顔を起こすようにしながらゆっくりゆっくり足を進めていた。けっして小奇麗なものを纏っているでもない、どちらかと言えば汚い身なりのその老夫婦が私の印象に深く残っているのは、彼らの表情にその理由が有る。二人ともいつも黙ったままだが、その前方を見ている二人の表情は皺だらけであってもいつも穏やかな笑みを浮かべていた。顔は違うのに二人の微笑み方は全く同じで、数十年の歳月を二人が手を取り合って重ねてきたことはその同じ微笑み方で納得できる。しかし歩きながらお互いが顔を見合わせて話しているところを今まで一度も見たことはない。必ず顔を起こして、必ず前を向いて、そして必ず手を繋いで、二人とも視線を前方遠くに遣りながら微笑んで歩いている。何の人生の迷いも、二人の間に何のわだかまりも無いようで、更に明日への恐れも見えないふたりひとつのその姿は、十分に神々しいと言ってもいい。私を揺さぶる何かをその老夫婦の姿を見ることで受け取った。祝福のカップルは未来永劫離れることはないという。身体を合わせ魂を混ぜ合わせ、自我をも混然一体とする夫婦一体の場でこそ、私という存在は肯定される。それまでの私は相対理想を完成できず、存在も確定されずに否定されたままだ。目にしていたあの老夫婦の美しい夫婦の形を見せられてから、私の思う夫婦像は深みを帯びてきた。夫婦一体となることで本当の霊的生命を受け取ることが出来るという感覚がいくらかある。明日はバレンタインデーだ。バレンタインデーが近付くと、決まっていつも目にしていたあの老夫婦が思い出される。御父様の話に出てくる障害のある夫婦と重ね合わせている。松の木陰の夕焼けの暖かいところで二人で寄り添って座り、喜びながら眠りについてそのまま逝ってしまった、御父様の村の夫婦と重ね合わせている。それは悲しいようだけれども喜ばしく、惨めなようであるけれど美しい、夫婦の本質の不思議な味わいがそこにある。

2011年2月13日日曜日

今日の想い 259

何気ない日常のできごとに、これといった印象を受け取るのでもなく、ただ私の体を通り抜けていっただけの毎日の繰り返しだった。私の意識はいったい何処に光を宛てていたのだろう。おそらく期待に胸を膨らませながら、地上生の体験を望んで生まれ出でたはずなのに、既に折り返し地点をとっくに超えている。眠りに着いたままで過去の貴重な日々を無駄に浪費し、今薄暗い過去を振り返りながらこの手がこの腕が、震えながら私を憂いの目で眺めている。この足がこの肉体が私を問い詰めようとしている。戴いたこの体は真の愛の関与する行動を望んできたはずだ。魂が弱く、浸透し染まっている堕落的な気分を洗い落とすことが出来ずに今まで来てしまった。この体を私は騙したままでいる。私の魂体は堕落的であっても、この肉体そのものには罪はない。死んで私がこの身体から抜け出れば、身体は魂の余韻を暫くは残すけれどやがて土に返っていく。土に返った身体は私から解放される。それでもその時私の身体で良かったと思われたい。弱き私の魂の葛藤に巻き込まれながらも、それもまた神様のみ旨への貢献だと思って欲しい。そんなことに想いを馳せると、この肉体と共に今の今生きていることが無性に有難い。この身体が愛おしくなる。人間形姿という、この私の霊と魂の船が肉体という私の相棒だ。幾分ガタツキもあるけれど半生を超えて尚、この状態を保ってくれていることは何にも増して力強く思う。妻の船は牽引を必要としているけれど、それでも共に地上生を航海している。み旨に完全投入することを誓いながら、しかし弱さに勝てずに本来の航海路程からズレながら、騙して騙してここまでやってきた。肉体から讒訴されて当然な航海主を、それでも信じて舵取りを任せている。御父様の願いに応えることができる身体を戴いている。この身体があればこそ御父様を慕い侍ることが出来る。今こそ魂を強くし、意識の光をしっかり照らして、前進して行こう。希望の大地はもう目と鼻の先にある。

2011年2月12日土曜日

天使を考える

昼、私であるという意識を備えて外界との授受作用を為している。夜、睡眠という無意識の中で内界との授受作業をなしている。人間は寝たり目覚めたりしながら、それは意識と無意識が交互に訪れながら、地上界と霊界を行ったり来たりしている。現代人と古代人の大きな違いは、現代人は肉体という地上存在に深く浸透しているために地上意識はより明確になっており、古代人は現代ほど肉体に浸透していないため意識が曖昧であり、どちらかと言うと夢を見ているような意識状態にあった。逆に睡眠に入って霊界への境界を越えると、現代人は完全な無意識状態になるけれど、古代人は睡眠中こそある適度の霊意識を備えている。彼らに取って曖昧な地上界よりは霊界の方がより現実であって、事実様々な霊的存在との遣り取りの方が現実として支配した。現代人の良心は内的なものであるけれど、古代人のそれは霊的存在そのものであり、神の言葉に従わなければ鬼として襲い掛かり、悔い改めて従えば微笑む女神に存在様相を変えて慰労した。しかし現代人が呵責と感じる良心も、古代人が恐れた両神も同じ霊的存在に変わりは無い。ここで天使について考えて見る。天使と言う存在も霊的存在であるけれど、我々が描く天使像はどちらかと言うと古代人的な天使像だ。羽が生えていて飛び回っている天使像だ。両神が良心であるように、天使も内的な作用として捉えるほうが現代人に取っては天使のより天使としての作用を実感できる。人間に取って天使の働きの中での大きな要素は、霊の呼吸に関わっている。生命活動の呼吸をただ外的に見れば、空気を呼吸しながら酸素を吸収し炭素を排出している。霊の呼吸は天使を介して、外界での魂活動を通しての言葉と行動の人格の要素、理想の要素(原理で言えば生力要素)を人間は霊界で供出し、霊界から原理や愛の要素(生霊要素)を受け取る。だから天使は愛の実としての言葉と行動のエキスを吸収したくて待ち焦がれているし、それに応じた愛と理想を差し出し人間はそれを霊的力としてしっかり吸収することで天使との関係を必要なものとしている。人格と理想が私に備わっていくことの実感が、天使存在がしっかり関わってくれていることの実感だ。

言葉を考える

私達は言葉の本来の力を取り戻さなければならない。言葉がただのコミュニケーションツールとして道具化され、どこまでも物質的なものに貶められているのが現代だ。それでも私達の子供の頃は、本を読むにしろ話を聞くにしろ、そこから夢を受け取り理想を受け取り希望を感じた。まだ言葉が夢を含んでおり理想を含んでいた。言葉の本質を考えた時に、言葉を違えることで括られるものがある。それは民族という括りだ。それぞれの民族でそれぞれの言葉を使う。同じ言葉を使いながら同じ民族理想を民族全体として掲げている。即ちそれぞれの民族はそれぞれの民族霊が民族理想として関与している。理想とは霊的なことだからだ。民族霊という大天使がその民族の使う言葉を体としているとも言える。私達が語る言葉には民族霊が関与し言葉を通して現れているのだ。主の国の言葉を習得するように御父様が口を酸っぱくして語られるのには言葉と霊との切っても切れない関係性があるからで、真の父母を中心とする統一民族として括る為には御父様の使われる言語、韓国語を習得せざるを得ないということだ。日本食口は日本語でみ言葉を学び日本語で話すけれども、日本語を使っている以上はどんなに精誠を尽くしても日本の民族霊が多かれ少なかれ関与せざるを得ない。だから霊的な深い内容や高次の霊的事柄に関することへの限界があるし、御父様の心情の中核を本当の意味で体恤することは難しいだろう。言葉を通して様々な霊を遣り取りしている。では言葉を通して理想を遣り取りしていると言えるだろうか。み言葉を正しく受肉すれば理想を受け取るのだ。ONE FAMILY UNDER GODの理想を受け取る。過去の歴史に抱いた如何なる理想をも凌駕し、誰よりも燃え立つ高揚感を精神に昇らせながらその理想を分かとうとする。日本食口であるなら、幕末の志士が尊皇攘夷を語りながら日本のあるべき姿への理想に燃えていた気分を思いだせるだろう。日本民族という限られた中ではあっても彼らは言葉の力を得ていた。その高揚感以上の想いを私達はみ言葉に見出すべきだ。

2011年2月10日木曜日

今日の想い 258

心には心の言い分があり、体には体の言い分がある。アベルにはアベルの言い分があり、カインにはカインの言い分がある。心の言い分だけを押し通しても体は納得しない。アベルの言い分を押し通してもカインは屈服しない。アベルの位置に居座って物言いをし続け、一体化できないことを屈服しないカインのせいにし続ければ、統一は永遠に訪れない。心と体の一体化は心も体も神様の願いの位置に立ってこそなされる。アベルカインの一体化も、両者が御父様の願いの位置に立たなければ中心を備える事ができず一体化はなせない。アベルが御父様の願いに立てば御父様のカインへの想いを知り、アベルの位置だけの言い分を押し通そうとはしないだろう。カインも御父様の願いに立てば御父様が自分の前にどうしてアベルを立てたのかを知り、一つになろうと模索するだろう。人類が求めてきた本当の叡智は、心と体が一体化できる知恵だ。アベルカインが一体化できる知恵だ。そして人類に与えられたものは一体化の為の中心となる真の父母であり、み言葉にある神霊と真の愛の溢れる一体化の知恵だ。アベルに従う者もいる。カインに従う者もいる。アベルに従う者もカインに従う者も、こちらが正しく向こうが間違っていると言い合う。その根底に御父母様を思い遣る姿勢があるのだろうか。一つになって欲しいという心情動機が衝動となっているだろうか。アベルの位置で私が正しいと御父様に詰め寄れば、御父様は頷かざるを得ないだろう。しかし正しい者が正しくある為には、相反する者を抱いて包んでこそ正しい者だと証明できるはずだ。実らない正しさ、地に着かない正しさは一方的なものであって振りかざすものではないだろう。だからひとつになっていない状況では、私はただただアベルもカインも御父様の願いに近付けるよう祈り、その想いにかなった行動を取ることしかできない。どちらがどうだとかいえる立場には全く無い。しかし明らかなのはどのような道を辿るにしろ、結果的には必ずひとつになるということだ。そして一体化の途上にあるということだ。御父様はそれは明白なものとして見ておられる。一体化された時皆の取ってきた行動やその動機、そして心情を私達は自分で秤にかける時が来る。自分で自分を裁く時がくる。注目されている表面に現れた問題を憂うのではなく、あなたの目に入っている針を心配しなければならないと、御父様の目は私達に言っているようだ。南にいる友達から電話があって少し話した。いつものことだが信仰的な言い回しはこれと言って無いにも拘らず、この話題を振ったとき問題に対しての知恵有るぶれない信仰姿勢を見せてくれて少し驚いた。何も出て来そうに無い意外な死角から言葉が届いてハッとした。

2011年2月9日水曜日

今日の想い 257

離れている、という言い方は違うような気がして、距離を置いている食口という言い方の方が頷けるので、そういう言い方をしている。そういった距離を置いている食口のいろんなブログを眺めながら感じることは、その殆どが何もわからずに入ってきて何もわからずに遠ざかっているということだ。御父様や真の家庭に関すること、教会に関すること、こうしたああした、こうされたああされた、自分の中の何をもって判断基準にしているのか、おそらくこの世的感覚のみで判断しているのだろうと思えるが、それをもって御父様の価値、救いの有る無しをも決められるのだろうか。勿論その感覚も必要ではあるけれど、その判断に自分の内的霊的生命を委ねられるのかと言うとそれは私には無理だ。本人に取っての救いが魂活動の表面的なことを言っており、心が休まることが救いであって、深い内的霊的生命に関することはわからないし気にもならないと言っているようだ。彼らの集めているいろんな教会情報はその通りだろう。言っている事と現実に起こっている事とのギャップも上げればキリが無い。目にすることが醜いことも多々ある。しかし、だからそこに私の救いはないと思える感覚は私には理解できない。先ずあなたに取っての救いとは何なのかと問いたい。おそらく救いに至るのであれば死んでもいいと思えるほど、或いは気が狂うほど考えたことも悩んだことも無いのだと思う。幸か不幸か私はその境地を垣間見た。そして御父様とこのみ言葉に救いがあることを確信している。だから地獄であってもしがみ付いて歩んでこれたし、少し距離を置くこともやめた。厳しい路程であったことはその通りで、救いを得たいし御父様に着いて行きたいけれども自分が弱くてついていけなかったと言う兄弟は何人かいた。でもそれは自分の弱さからであって、御父様を否定するのとは訳が違うし批判的コメントなどするはずもない。良心の呵責があって距離を置いているのと御父様への不信を抱いて距離を置いているのとでは意味合いが全く違う。教会批判は赦すとしても、元食口の名で御父様を批判するのは耐えがたい。

2011年2月8日火曜日

心情の価値を考える

確かに食口は背負うべきものが多く、多くの家庭が重荷を背負っているのかも知れない。外的なことを言うなら家計の問題から始まって子女の問題、夫婦の問題、更に親兄弟間の問題と、背負っているものは多い。誰もが祝福が内的霊的なもののみならず、外的な事柄や、家庭であれ氏族であれ関係性の中や環境にも恩恵を受けるものだとの思い込みはあったはずだ。しかし現実として背負いきれないほどの重荷を掃えないものとして背負っている兄弟は多い。こんなはずではなかったと言うのが兄弟誰しもが先ず普通に感じることだろう。しかし一方で、普通に自然に、仕方のないことだと諦めているか、もっと難しい環境にいる兄弟だっていると比較して言い聞かせる自分もいて、信仰を辛うじて維持している。そこには恐らく統一信仰の道やみ旨とはそういうものだろうという諦めで自分を納得させている。しかしその溜息をつく冷め切った位置は御父様の喜びではないだろうし願いでもないはずだ。勝利であるとか完成であるとか、華々しい文字で語られるみ言葉と私とのギャップを皆はどう捉え、どう消化しているのだろうか。御父様やみ言葉は私に取っては理想であって理想は見上げるものだと変に納得して諦めてしまったのか、或いは兄弟の大半が御父様の勝利を私の勝利として既に実感しているのだろうか。そうであるなら希望だけれども、重荷を負って消化できずにもがいているなら如何に消化したらいいのだろうか。それをも愛であり、だからこそ愛なのだと断言できる私となってこそ重荷は消化できるのだろう。と言うより重荷が私への神様の信頼の証しだと捉えることができれば今までとは違うステージに立って対処できる。要するにもっと重荷を背負って神様を慰めて差し上げたいと思える自分であるべきなのに申し訳ない、という位置でこそ、私は正しく私が背負っているものに対していると言えるのだろう。それでこそ背負っているものに真正面から対し、甘受しながら、この流す涙が神様の涙なのだと実感し、神様の心情の位置にまで私の位置は飛翔して移動されて、神様と同じ心情圏を共有する。重荷を背負っているから愛されていないのではなく、重荷を背負うほどに愛され信頼されている。私達は心情と言う言葉を持っている。涙する恨を魂が咽んで震えるほどに抱える立場で受け取るのが心情だ。その心情の価値を認めればこそ自分が置かれた困難な状況を感謝できる。それは統一食口の涙の哲学だ。

2011年2月7日月曜日

訓読会

天正宮の訓読会の様子を見ているといつも御父様が尋ねられることがある。集まった参加者を見渡しながら何処から来たのかを尋ねられる。私にすれば何処から来ても同じ食口だと思えるけれど、おそらく御父様に取ってはそれが重要で、だから尋ねられるのであり、そして食口の霊的背景を見ながら話される。み言葉の内容も何処から来た食口かで違ってくるのだろう。特別の日以外は必ず五時きっかり訓読会場に姿を現され、中心の中心の位置で訓読会の模範を示される。食口であれば誰もが見慣れた毎日の行事として、スクリーンの中を特に気負うでもなく眺めているけれど、御父様御自身が相当の犠牲を払って訓読の精誠を供えられていることは言うに及ばない。前にも記したことがあるが、ワシントンに来られて訓読会を指揮された時もやはり五時きっかりに御母様と御一緒に姿を現された。私の目だけにそう映ったのか、御父様はいつもとは違う御様子でたいそう疲れておられた。最初に口を開かれるのも時間がかかったし、決して力強い言葉とも言えなかった。しかし十分もしないうちに促された訓読を遮られて話し始められると、あとは時間を重ねる毎に強さを増して語られ、最終的に昼の一時をまわってやっとみ言葉を閉じられた。最初は参加した誰もが御父様を心配していたと思うが、心配すべきは尻や足が痛くなった自分の方だった。御年を全く考慮には入れておられないようだし、力の配分さえも無視しておられる。齢九十を超えた身体を叱咤されながら、全力投入の一日一日を積み重ねておられる。本来なら涙無しには、語られる御姿を眼に写すことはできないはずだ。今日には今日の全力投入の精誠を私達に差し出される。これが今日の御父様だ。今日の御父様の精誠だ。私への真の愛だ。想像したくもないが、これが途絶える時が遠からず訪れる。であれば、魂の奥の奥に今日の御父様の愛の形をしっかり刻み付けて、そしてこれが大きく実を結ぶ時を私は見るだろうし必ず見なければならない。何処から来たのか尋ねられる御父様は、緊張で固くなった食口の魂を開こうとされて、語りかけて居られるのかも知れない。

二月に入ったばかりだと言うのに今日は春がもう来たような暖かな一日だ。数日前までは内陸部の寒波が押し寄せてきて、本格的な寒さへの気構えをしていたのに、嬉しい肩透かしを食わされたような気分だ。道路やパーキングエリアの端に掻き寄せられた雪の山は、薄黒くすすけた肌を見せながら体積を減らし続けている。暖気で霞んでいる青空を見渡せば、このまま春が訪れるような様子だが、そう簡単にはいかないだろう。しかし立春も過ぎれば確実に全ての生命が芽吹く春に近付いてはいる。2011年の春だ。天基2年の歴史的春が近付いている。キリスト教では春の訪れの気分はイースターの祭りという宗教的気分で心魂を満たされている。春と復活祭とは切っても切れない関係にあり、生命の芽吹きから受け取る感情に、イエス様が復活されることによって為される全ての生命の復活の歓びを見ている。クリスチャン達は復活祭を祝いながら、霊的にも春を受け取っている。では統一食口に取っての春はどうだろうか。今年から天暦による名節に換わったために、立春と共に真の神の日、御聖誕日を迎えることとなった。更に愛勝日、神様王権即位式記念も合わせてとなると天基二年からの春はまさしく天宙的春を謳歌する、歴史に無かった霊的高次の春を私達は受け取っている。今までの春には覚えなかった神霊に溢れた春を実感として味わっているだろうか。未だ霊的眠りから醒め切らない私達を御父様は御覧になられて、歓びを歓びとして受け取っていない何とももどかしい思いを持たれているはずだ。

2011年2月6日日曜日

訓読会を考える

御父様のみ言葉を受けて、そこに愛を見なければみ言葉の輪郭を受け取るのみで、その内的本質を受け取ることにはならない。私達は訓読しながら真の愛のシャワーを浴びている。胸に抱かれてまどろむような、そんな気分に包まれることだけを望みそれを愛だと認識するなら、この世の愛の方が余程その人に取っては愛の世界だろう。しかし偽りの愛ではなく真の愛には、汗の奉仕があって忍耐を要求され、涙の恨があって甘受を要求され、血を流す覚悟があって犠牲を要求される。誰もが流したくないものを自らを追い遣ってでも流しながら、その流れる場で御父様の心情を相続できる。相続しながら更なる与える力、為に生きる力を真の愛として受け取っていく。私達の与える力に、為に生きる力に、この世の人達は受け取って魂を揺さぶる衝撃を受けるべきだ。もしそうでないなら、私達は御父様の心情を相続していない。真の愛が私には関与されていない。真の父母からくる真の愛と、この世の愛との天地の違いを、祝福を受けて御父母様の血統を戴いた私達は、明確に、更に衝撃的に証し得る者とならなければならないし、必ずそうなると信じている。訓読しながら浴びる真の愛のシャワーは、御父様の汗であり涙であり、そして血である。その本質を受け取る聖なる訓読の場に、畏れ多い畏敬の念で望まないなら、私達は一体何を受け取ろうとしているのだろうか。み言葉の輪郭をただ軽くなぞらえながら何を受け取れるのだろうか。神霊的に高ければ高いほど、私達は掘り下げるほどにマイナス位置に下っていかなければ受け取ることはできない。

2011年2月4日金曜日

今日の想い 256

御父様が遺言として下賜された教材こそが人類に伝えたい全てであり、この中から全ての答えが導き出せる。今の内部の問題や世界の問題に対して、兄弟誰もが心配し解決されることに意識と精神の殆どを費やしている。目前の問題が解決されれば全てが丸く治まって、希望的な世の中が出現するかのような気分と幻想を抱いているけれど、例え目前の問題が解決されても新たな問題が次から次へと起こるのは必至だ。要するに我々が対処することばかりにエネルギーを費やしても、対処する位置から逃れられない以上いつまでも問題の方が先取してくる。御父母様に対して絶対服従はその通りだけれど、指示待ち状態に常に置いておいて、受けたことのみを悲痛な想いで対処していく今の在り様が絶対服従だとは思わない。疲れないようにしなさいと語られたことが何度もあるが、今の我々の対処する在り様では疲れて当たり前だろう。そんな我々ははっきり言って自由ではない。私の自由意志でみ旨を歩むのではなく、降り懸かるから仕方なしに歩んでいるに過ぎない。そしてそれをみ旨の道であり御父様の願いだと誤解している。それで本当にみ旨が為せるのだろうか。もし為せたとして御父様と同じ喜びを喜ぶことができる自信があるだろうか。確かに御父様は勝利されて後天開闢時代を開かれ、地上に御国が完成するのも時間の問題だろう。それならば我々が悲痛な想いで歩む意味は何だろうか。時間の短縮だろうか。御父様が勝利的布石を打たれながら一つ一つの段階の勝利圏を現実として生きておられるように、我々は遅まきながらでもその後を周到しながら、開拓された勝利圏を私の現実として受け取って来ただろうか。我々は未だ眠りの中にあることを知り、先ず目覚めなければならないだろう。目覚めて訓読するみ言葉が活き活きと私の糧となる様を実感すべきだろう。そうして私は自由を獲得し、対処意識から主体的能動的意識に脱皮する。眠ったままで御父様と尋ねても、尋ねたことにはならないしお父様は答え様がない。私自身がみ言葉の実体にならない限り、いつまでも周りからであれ上からであれ、降り懸かる言葉を鵜呑みにせざるを得ない。御父様自身が何度も神様から否定されながら、それでもこれが正しいと直訴され、神様が屈服された経緯がある。私達もそういう経緯を通過すべき時があるはずだ。

2011年2月3日木曜日

今日の想い 255

年頭のみ言葉の中で日本食口が最も気になる箇所は、韓国への入籍と日本が五つの国に分かれるとはっきり言及されたことだろう。それらしいことは今までに何度も触れておられるけれど、今回のようにはっきりとその言葉の意味するものが限られ、ひょっとして比喩的に話されたのでは、という今までのような推量の余地はそこにはない。天国への入籍ではなく韓国への入籍となると確実に移動を意味している。そして国が分かれるとなると侵略を受けるとか、首都が壊滅して統治機能がやられてしまうとかが考えられるが、侵略を受けるなら二分されることはあっても五つに分かれることは無いだろう。そうなると何らかの物理的力が働いて日本列島が寸断され、更に首都が麻痺してその機能を果たさなくなってしまうことを意味している。日本の食口がこれほどに犠牲となり苦労をし、精誠を供えているにも関わらず、日本は益々御父様に反旗を突きつける。しかしこの日本を統治する民族霊がこれほどに頑ななのはどうしてなのかと非難し問うことはできないのかも知れない。それは本来の民族指導霊が失脚してしまい、偽りの下級霊達が我が物顔で跋扈しながら日本を弄んでいるからだ。御父様が言われるように今の私は日本の食口であって日本人とは言わないけれど、過去に於いて日本人の内容を持っているのであれば、私の中にも御父様を受け入れない日本人的何かが残っているはずだ。いつのまにか民族霊という太い一柱の柱を日本も私も見失い、そこにさまよっていた霊が住み着いてしまって日本人の意識を落ちるところまで貶めている。私の中にもそれがあって気を許せば表情を覗かせる。五つに分かれるとすれば、五つの霊的背後に沿って分かれるだろうし、分割されることでより神とサタンが分別されると言うことでもある。日韓トンネルを諦めない御父様がおられるということは、大鉈を振って日本を分割してでも日本を救う摂理を諦めないと表明しておられるのだろう。勿論敬礼式の集会で語られた多くのみ言葉の中から、その部分だけを特化して受け取るのは危険だけれども、どういう形であるとしても私達の覚悟と決意を促しておられることは理解できた。