2011年2月4日金曜日

今日の想い 256

御父様が遺言として下賜された教材こそが人類に伝えたい全てであり、この中から全ての答えが導き出せる。今の内部の問題や世界の問題に対して、兄弟誰もが心配し解決されることに意識と精神の殆どを費やしている。目前の問題が解決されれば全てが丸く治まって、希望的な世の中が出現するかのような気分と幻想を抱いているけれど、例え目前の問題が解決されても新たな問題が次から次へと起こるのは必至だ。要するに我々が対処することばかりにエネルギーを費やしても、対処する位置から逃れられない以上いつまでも問題の方が先取してくる。御父母様に対して絶対服従はその通りだけれど、指示待ち状態に常に置いておいて、受けたことのみを悲痛な想いで対処していく今の在り様が絶対服従だとは思わない。疲れないようにしなさいと語られたことが何度もあるが、今の我々の対処する在り様では疲れて当たり前だろう。そんな我々ははっきり言って自由ではない。私の自由意志でみ旨を歩むのではなく、降り懸かるから仕方なしに歩んでいるに過ぎない。そしてそれをみ旨の道であり御父様の願いだと誤解している。それで本当にみ旨が為せるのだろうか。もし為せたとして御父様と同じ喜びを喜ぶことができる自信があるだろうか。確かに御父様は勝利されて後天開闢時代を開かれ、地上に御国が完成するのも時間の問題だろう。それならば我々が悲痛な想いで歩む意味は何だろうか。時間の短縮だろうか。御父様が勝利的布石を打たれながら一つ一つの段階の勝利圏を現実として生きておられるように、我々は遅まきながらでもその後を周到しながら、開拓された勝利圏を私の現実として受け取って来ただろうか。我々は未だ眠りの中にあることを知り、先ず目覚めなければならないだろう。目覚めて訓読するみ言葉が活き活きと私の糧となる様を実感すべきだろう。そうして私は自由を獲得し、対処意識から主体的能動的意識に脱皮する。眠ったままで御父様と尋ねても、尋ねたことにはならないしお父様は答え様がない。私自身がみ言葉の実体にならない限り、いつまでも周りからであれ上からであれ、降り懸かる言葉を鵜呑みにせざるを得ない。御父様自身が何度も神様から否定されながら、それでもこれが正しいと直訴され、神様が屈服された経緯がある。私達もそういう経緯を通過すべき時があるはずだ。

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