2011年2月19日土曜日

今日の想い 263

子供が小さいときは、好き放題、遣り放題の我が子に対して戒めもし、それでも聞かないようなら恐れさせもする。子に対する厳しい態度も、子を想う親の愛故であって、憎くてそうしている訳ではない。み言葉の中には恐れも抱き、裁きと受け取れるものもあるにはあるけれど、全ては食口を想い、人類を想う御父様の愛からでた言葉だ。御父様の裁きの言い回しを受けて、卑屈になったり距離感を感じたり、減少感を感じたりする必要は全く無い。子供がだんだんと大きくなって、感情を込めて厳しく言い付けたつもりが、受けた子供は一呼吸でも置いて、逆に親を心配する言葉を冷静にかけてくれたりする。親は肩透かしを喰らって、どう結末をつけて良いのやらわからずにうろたえる。そんな時に親は子供の成長を実感として受け取る。親は子供の成長を見て喜ぶものだ。御父様もきっと私達の成長を見て喜ばれるはずだ。御父様だって言葉とは裏腹な想いがありながら、それでも躍起になって怒りの言葉を吐かれるときだってあるだろう。子供に出て行けと言いながら、本当に出て行って欲しいとは露ほども思ってはいない。子供が成長したら、その辺りの親の想いの逆説をちゃんと受け取って行動することを要求される。私達が御父様に接する時も、いい加減幼い信仰を返上して、親としての想いをちゃんと受け取れる成長した信仰を見せるべきだろう。言葉の表面的なものだけを丸受けして行動することで、後で御父様の願いとはチグハグになるようなことはないのだろうか。私はそんなことが御父様の周りでも起こっているように思えてならない。ここまで来て思うのは、私は私の責任分担だけを全うすることに集中していれば、後の事は神様が主管されるから私は関知すべきでないと言うのは、今の今、本当にそれでいいのだろうかという気持ちがあって胸騒ぎがする。私達が全体としてサナギを脱皮できるかどうかを今問われているように思える。

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