2011年2月18日金曜日
今日の想い 262
たとえ一日だけの生命であってたとしても、地上に送られて地上生を生きることは、霊的な存在で有る以上何にも換え難い貴重なことなのだろう。たとえ一生を痛みに煩わされて生きるよう運命付けられているとしても、それでも地上に送られるときは地上への希望に胸を膨らませて足を踏み入れるのだろう。泣いたり笑ったり、悲しんだり怒ったり、魂の変幻万化を味わいもし酔いもしながら自分を認識し、愛の何たるかを学びながら自分の根源である神様を体感する。そうして生きる体験それ自体が宇宙的な価値があるはずだ。地上生を生きるとは明日の事さえ見届けられずに生きると言うことだ。私の感情は変化に対する躊躇があって安逸を貪ろうとするけれど、私の自我は明日が見えない刺激を望み、明日を創造していく欲望を自我の本性としている。自我に取っては明日がわからないから進んでいくのだ。見えないところ、わからないところに想像もしなかった愛の形がまどろんでいる。暗闇の中に内的霊的な開拓を挑んでいけば、神様の真の愛を掘り当てることが出来る。人間の、尽きない更なる愛への希求が期待感となり衝動となってこの世に生まれ出でたのだ。この堕落世界に染まらず、子供の頃の純粋無垢な目の輝きを保ち続けるなら、サタン的なものと取引せずに愛を愛として受け取ることが出来ただろう。しかし多くの魂は堕落的な色に染められ、自我を見失い、更には存在することすら呪いながら生きている。誰もがみんな御父様に繋がらなければ救いはない。血統転換されないなら存在すら自ら否定せざるをえない。今地上に存在する全ての人間は、この終末と呼ばれる時代に生まれ合わせている。全ての人間が背後に群がる夥(おびただ)しい霊の救いを預かっている。終末の時代に生まれ出でた意味はそれぞれが終末観を持たなければならないと言うことだ。私は関係ないと本心から言うなら、この時代に生まれ出でるべきではなかったのだ。御父様が話されるように霊界の声に従わなければ必要ない存在として即連れて行かれるだろう。摂理完結までの最後の期間、どんな者でも終末観に喘ぐようになる。喘いでのた打ち回って真の父母を求めざるを得ない。その時の内的霊的準備を、御父様を知る私達食口は用意できているだろうか。
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