2011年2月17日木曜日

今日の想い 261

私は御父様を信じているだろうか。確かに私は御父様を信じている。信じて思考に御父様のみ言葉を土台にし、行動に御父様の願いを動機付け、そして感情に浮かんでくるものから御父様との因縁を探してきた。では私は御父様を慕っているだろうか。歩みを積み重ね感情に刻まれてきた因縁が、私の中心的な気分ではある。確かに慕ってはいるけれど、御父様のことが心配で心配で居ても立ってもいられないと言えるかどうかは疑問だ。その疑問を抱える私の位置が御父様との距離なのだろう。私はみ言葉の位置ではない、過去生から受け継がれている気分の落ち着く地上安全圏で御父様を眺めていることの方が多い。そしてそれに執着してもいる。み言葉を土台にした思考の結論は、やがてそれが崩れ去るものであることを良く知っている。それでもその落ち着く気分を捨てることが出来ずにいる。その安全圏で私を脅かす時、即ち困難や問題が私の前に立ち塞がる時、その時は否が応でも御父様を呼び求める。み言葉の位置に立とうとし、地上的気分を捨て去る決意と覚悟を差し出す。要するに脅かされなければいつまでも堕落圏に留まろうする私がまだいると言うことだ。完全な地の底の堕落圏ではないにしても、今の自分の位置から飛び立とうとはしない。御父様を慕う想いと、それに反する自分の位置に留まろうとする気分がある。それが私の中で常に拮抗しており、困難や問題が沸き起こるとき表に出てきて私は二者択一を迫られる。そういう場でしか慕う力を強く出来ない私であるなら、困難や問題こそが今の私を御父様の心情圏に入らせる門番だろう。困難や問題に対して真正面から挨拶してお手合わせを願い、心情圏への門を一つ一つクリアしていくしかない。本当はそんなのを待たなくとも、御父様の心情圏に直行できる道がある。絶対信仰、絶対愛、絶対服従の道だ。しかしその心情圏への高速道は完全な自己否定に立たなければ見えては来ないのだろう。今の私にその概念は形を整えていない。御父様を慕い、御父様に侍り、御父様の願いに相対して歩んでいるようで、実はあらゆる生活習慣、行動習慣、思考習慣の隅々まで堕落的な要素が侵入していて、それに頼って生きている。未だ浄化されない堕落的な私の血の在り様が、この身体を巡っている。もし聖なる剣で一刀両断されて、この堕落の血が一滴も残らず流されて、肉の生命は失うとしても霊の生命が御父様の心情圏に届けられると言うなら、願い出てでもその沙汰を望む私がいて行動するだろうか。

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