2011年2月10日木曜日
今日の想い 258
心には心の言い分があり、体には体の言い分がある。アベルにはアベルの言い分があり、カインにはカインの言い分がある。心の言い分だけを押し通しても体は納得しない。アベルの言い分を押し通してもカインは屈服しない。アベルの位置に居座って物言いをし続け、一体化できないことを屈服しないカインのせいにし続ければ、統一は永遠に訪れない。心と体の一体化は心も体も神様の願いの位置に立ってこそなされる。アベルカインの一体化も、両者が御父様の願いの位置に立たなければ中心を備える事ができず一体化はなせない。アベルが御父様の願いに立てば御父様のカインへの想いを知り、アベルの位置だけの言い分を押し通そうとはしないだろう。カインも御父様の願いに立てば御父様が自分の前にどうしてアベルを立てたのかを知り、一つになろうと模索するだろう。人類が求めてきた本当の叡智は、心と体が一体化できる知恵だ。アベルカインが一体化できる知恵だ。そして人類に与えられたものは一体化の為の中心となる真の父母であり、み言葉にある神霊と真の愛の溢れる一体化の知恵だ。アベルに従う者もいる。カインに従う者もいる。アベルに従う者もカインに従う者も、こちらが正しく向こうが間違っていると言い合う。その根底に御父母様を思い遣る姿勢があるのだろうか。一つになって欲しいという心情動機が衝動となっているだろうか。アベルの位置で私が正しいと御父様に詰め寄れば、御父様は頷かざるを得ないだろう。しかし正しい者が正しくある為には、相反する者を抱いて包んでこそ正しい者だと証明できるはずだ。実らない正しさ、地に着かない正しさは一方的なものであって振りかざすものではないだろう。だからひとつになっていない状況では、私はただただアベルもカインも御父様の願いに近付けるよう祈り、その想いにかなった行動を取ることしかできない。どちらがどうだとかいえる立場には全く無い。しかし明らかなのはどのような道を辿るにしろ、結果的には必ずひとつになるということだ。そして一体化の途上にあるということだ。御父様はそれは明白なものとして見ておられる。一体化された時皆の取ってきた行動やその動機、そして心情を私達は自分で秤にかける時が来る。自分で自分を裁く時がくる。注目されている表面に現れた問題を憂うのではなく、あなたの目に入っている針を心配しなければならないと、御父様の目は私達に言っているようだ。南にいる友達から電話があって少し話した。いつものことだが信仰的な言い回しはこれと言って無いにも拘らず、この話題を振ったとき問題に対しての知恵有るぶれない信仰姿勢を見せてくれて少し驚いた。何も出て来そうに無い意外な死角から言葉が届いてハッとした。
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