2011年2月14日月曜日
バレンタインデー
アパートの裏口から出ると、左後ろの方にもうニ棟ここと同じ高層アパートが並んでいる。最近は朝六時には店に行くようにしているが、以前は従業員が入ってくる半時間前の十時頃に店に出かけていた。そうすると左後ろのアパートから大通りに向かって、いつも同じ時間に歩いて来るカップルに出くわした。別に声をかけるでもかけられるでもなくただ遣り過ごすだけだったが、おそらく彼らは散歩に出かけていたのだろう。二人とも優に八十は超えていると思えるが、おじいさんはおばあさんの手をしっかり握って、どちらも背が曲がりそのため顔を起こすようにしながらゆっくりゆっくり足を進めていた。けっして小奇麗なものを纏っているでもない、どちらかと言えば汚い身なりのその老夫婦が私の印象に深く残っているのは、彼らの表情にその理由が有る。二人ともいつも黙ったままだが、その前方を見ている二人の表情は皺だらけであってもいつも穏やかな笑みを浮かべていた。顔は違うのに二人の微笑み方は全く同じで、数十年の歳月を二人が手を取り合って重ねてきたことはその同じ微笑み方で納得できる。しかし歩きながらお互いが顔を見合わせて話しているところを今まで一度も見たことはない。必ず顔を起こして、必ず前を向いて、そして必ず手を繋いで、二人とも視線を前方遠くに遣りながら微笑んで歩いている。何の人生の迷いも、二人の間に何のわだかまりも無いようで、更に明日への恐れも見えないふたりひとつのその姿は、十分に神々しいと言ってもいい。私を揺さぶる何かをその老夫婦の姿を見ることで受け取った。祝福のカップルは未来永劫離れることはないという。身体を合わせ魂を混ぜ合わせ、自我をも混然一体とする夫婦一体の場でこそ、私という存在は肯定される。それまでの私は相対理想を完成できず、存在も確定されずに否定されたままだ。目にしていたあの老夫婦の美しい夫婦の形を見せられてから、私の思う夫婦像は深みを帯びてきた。夫婦一体となることで本当の霊的生命を受け取ることが出来るという感覚がいくらかある。明日はバレンタインデーだ。バレンタインデーが近付くと、決まっていつも目にしていたあの老夫婦が思い出される。御父様の話に出てくる障害のある夫婦と重ね合わせている。松の木陰の夕焼けの暖かいところで二人で寄り添って座り、喜びながら眠りについてそのまま逝ってしまった、御父様の村の夫婦と重ね合わせている。それは悲しいようだけれども喜ばしく、惨めなようであるけれど美しい、夫婦の本質の不思議な味わいがそこにある。
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