2011年2月15日火曜日
今日の想い 260
決して安易な問題ではない。行くべき道、為すべき事がはっきり決められ、その通りに外的に歩んでいれば内的なものも自ずと願いの方向に向いていたが、今の問題の複雑さは内的なものを主体に置かない限りは外的な行動が取れないところにある。これまでは受動的な立場で何の迷いもなく歩んでこれたが、今は能動的主体的な立場に立たされている。私が主体的に行くべき道、為すべき事を判断し、決断して進まなければならない。旧態依然の、命令されるままに歩むと言う姿勢を金科玉条とするなら、これからは右に左に振り回されて次第に中心軸から離れていく自分を見ることになる。お父様の言われる通りに付き従っていく、それは当たり前のことだと誰もが思っている。だから取り敢えずは御父様の願いを中心に括られてはいる。しかし御父様の言葉の全て、願いの全てを受け取って行動しているかと言うと、私の理解が許すものを受け取っているとしか言えない。食口であるなら誰も御父様の事を心配しない者はいない。しかし御父様にすれば摂理があり全人類を救うことを最優先される。御苦労されておられる御父様の為にという想いと行動が、御父様の全人類を救う条件を阻んでいると言うことも有り得る。近い者が恩讐だと言われる所以だろう。沈殿し静まっていたものが寝る子を起こしたように掻き回され、濁って混乱している今の状況で、これが正しいと言ってノロシを上げ誰もがそれに従いえる行動は無いと言っていいだろう。それぞれが自分の責任で行動し、結果に対しては私の信仰生命をかけて収拾すると決意しなければならない。周りを見ながら私の行動もそれに倣うような者であるなら、私の存在意義は無いに等しく吹き飛ばされても当然なのかも知れない。信じる信じないの踏み絵ではなく、貴方はどう行動するのかという踏み絵を私に差し出される時が来る。その時、頭の先からつま先まで犠牲精神に貫かれた私の行動であってこそ、それを御父様への精誠として差し出すことができる。誰も答えを示してはくれない。しかし答えは必ず私の中にある。
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