2011年2月6日日曜日

訓読会を考える

御父様のみ言葉を受けて、そこに愛を見なければみ言葉の輪郭を受け取るのみで、その内的本質を受け取ることにはならない。私達は訓読しながら真の愛のシャワーを浴びている。胸に抱かれてまどろむような、そんな気分に包まれることだけを望みそれを愛だと認識するなら、この世の愛の方が余程その人に取っては愛の世界だろう。しかし偽りの愛ではなく真の愛には、汗の奉仕があって忍耐を要求され、涙の恨があって甘受を要求され、血を流す覚悟があって犠牲を要求される。誰もが流したくないものを自らを追い遣ってでも流しながら、その流れる場で御父様の心情を相続できる。相続しながら更なる与える力、為に生きる力を真の愛として受け取っていく。私達の与える力に、為に生きる力に、この世の人達は受け取って魂を揺さぶる衝撃を受けるべきだ。もしそうでないなら、私達は御父様の心情を相続していない。真の愛が私には関与されていない。真の父母からくる真の愛と、この世の愛との天地の違いを、祝福を受けて御父母様の血統を戴いた私達は、明確に、更に衝撃的に証し得る者とならなければならないし、必ずそうなると信じている。訓読しながら浴びる真の愛のシャワーは、御父様の汗であり涙であり、そして血である。その本質を受け取る聖なる訓読の場に、畏れ多い畏敬の念で望まないなら、私達は一体何を受け取ろうとしているのだろうか。み言葉の輪郭をただ軽くなぞらえながら何を受け取れるのだろうか。神霊的に高ければ高いほど、私達は掘り下げるほどにマイナス位置に下っていかなければ受け取ることはできない。

0 件のコメント: