2011年2月20日日曜日

距離を置く食口へ

自分を教会の内部にいると認識しようが、或いは教会と距離を置いた外部にいると認識しようが、御父様に取ってはさして変わりはないだろう。教会の中にいるから救われて、外に出てしまえば救われないと言う様な、そんな心の狭い御父様ではない。人類を救い、霊界や神様まで救い、そしてサタンまでも救われる御父様だ。教会から少し距離を置いて批判のひとつふたつしたところで、少しは関心を持っているらしいと思われる程度だろう。距離を置いた自己主張の強い娘や息子も、必ず帰って来るという確信を御父様は持っておられると思う。しかし問題は御父様がどうされるかではなく、本人自身に掛かってくることであり、言責や行動責任を本人が抱え負わなければならないことにある。自分の本心から出た嘘偽り無い言葉であり、行動なのかと言うことだ。誰が裁くのでもなく私自身が私を裁くのが原理原則だ。誰かに裁かれるのであれば、私は間違っていないと言い張ることができるだろうし、曲げない自分だけは信じてあげられるという安息圏を備えている。しかし自分が自分を信じられないと言う事になると私の存在の基盤は何処にもない。地上に例を取るなら、住む家が無いどころか食するものも無く、呼吸する空気にも事欠くような状況だ。或いはあったとしても食べるに口が言うことを聞かず手が言うことを聞かない、吸いたいのに吐こうとし吐きたいのに吸おうとするようなものだ。地上だけであれば死ねば全てが無になって終るけれど、私の霊は死なないし終わりを知らない。距離を置いて御父様を否定し批判する食口に私が一言伝えることがあるとするなら、良心がどれ程恐ろしいかと言うことを何としてでも知ってもらいたい。原理が正しいかどうかを、それぞれの価値観を装った言葉で論議する意味は全くない。原理に合い、御父様の語られる通りに御家庭が為されているかを判断し論証する物差しを、誰も持ってはいない。だから原理の正当性を述べ、御家庭の状況を説明したとしても、たとえ納得して帰ってくるとして、それで貴方の救いは担保される訳ではない。はっきり言えることは貴方の良心が貴方の全てを決めると言うことだけだ。貴方の良心に問うて御父様を受け入れないと言うなら、それ以上何もできない。しかしもしそこに嘘偽りがあるなら、御父様は赦しても貴方の良心は貴方を赦さないだろう。貴方に対する御父様の傷みはそこにある。御父様が負って済むのであれば、代わって犠牲を負われることに何の躊躇もされないだろう。貴方の親であり親父だと、貴方に諭している貴方への言葉が御父様という言葉だ。御父様は他の誰でもない貴方の御父様だ。それを受け取らずに何を受け取りたいのだろう、と私は思う。

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