2011年2月9日水曜日

今日の想い 257

離れている、という言い方は違うような気がして、距離を置いている食口という言い方の方が頷けるので、そういう言い方をしている。そういった距離を置いている食口のいろんなブログを眺めながら感じることは、その殆どが何もわからずに入ってきて何もわからずに遠ざかっているということだ。御父様や真の家庭に関すること、教会に関すること、こうしたああした、こうされたああされた、自分の中の何をもって判断基準にしているのか、おそらくこの世的感覚のみで判断しているのだろうと思えるが、それをもって御父様の価値、救いの有る無しをも決められるのだろうか。勿論その感覚も必要ではあるけれど、その判断に自分の内的霊的生命を委ねられるのかと言うとそれは私には無理だ。本人に取っての救いが魂活動の表面的なことを言っており、心が休まることが救いであって、深い内的霊的生命に関することはわからないし気にもならないと言っているようだ。彼らの集めているいろんな教会情報はその通りだろう。言っている事と現実に起こっている事とのギャップも上げればキリが無い。目にすることが醜いことも多々ある。しかし、だからそこに私の救いはないと思える感覚は私には理解できない。先ずあなたに取っての救いとは何なのかと問いたい。おそらく救いに至るのであれば死んでもいいと思えるほど、或いは気が狂うほど考えたことも悩んだことも無いのだと思う。幸か不幸か私はその境地を垣間見た。そして御父様とこのみ言葉に救いがあることを確信している。だから地獄であってもしがみ付いて歩んでこれたし、少し距離を置くこともやめた。厳しい路程であったことはその通りで、救いを得たいし御父様に着いて行きたいけれども自分が弱くてついていけなかったと言う兄弟は何人かいた。でもそれは自分の弱さからであって、御父様を否定するのとは訳が違うし批判的コメントなどするはずもない。良心の呵責があって距離を置いているのと御父様への不信を抱いて距離を置いているのとでは意味合いが全く違う。教会批判は赦すとしても、元食口の名で御父様を批判するのは耐えがたい。

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