2011年2月12日土曜日

言葉を考える

私達は言葉の本来の力を取り戻さなければならない。言葉がただのコミュニケーションツールとして道具化され、どこまでも物質的なものに貶められているのが現代だ。それでも私達の子供の頃は、本を読むにしろ話を聞くにしろ、そこから夢を受け取り理想を受け取り希望を感じた。まだ言葉が夢を含んでおり理想を含んでいた。言葉の本質を考えた時に、言葉を違えることで括られるものがある。それは民族という括りだ。それぞれの民族でそれぞれの言葉を使う。同じ言葉を使いながら同じ民族理想を民族全体として掲げている。即ちそれぞれの民族はそれぞれの民族霊が民族理想として関与している。理想とは霊的なことだからだ。民族霊という大天使がその民族の使う言葉を体としているとも言える。私達が語る言葉には民族霊が関与し言葉を通して現れているのだ。主の国の言葉を習得するように御父様が口を酸っぱくして語られるのには言葉と霊との切っても切れない関係性があるからで、真の父母を中心とする統一民族として括る為には御父様の使われる言語、韓国語を習得せざるを得ないということだ。日本食口は日本語でみ言葉を学び日本語で話すけれども、日本語を使っている以上はどんなに精誠を尽くしても日本の民族霊が多かれ少なかれ関与せざるを得ない。だから霊的な深い内容や高次の霊的事柄に関することへの限界があるし、御父様の心情の中核を本当の意味で体恤することは難しいだろう。言葉を通して様々な霊を遣り取りしている。では言葉を通して理想を遣り取りしていると言えるだろうか。み言葉を正しく受肉すれば理想を受け取るのだ。ONE FAMILY UNDER GODの理想を受け取る。過去の歴史に抱いた如何なる理想をも凌駕し、誰よりも燃え立つ高揚感を精神に昇らせながらその理想を分かとうとする。日本食口であるなら、幕末の志士が尊皇攘夷を語りながら日本のあるべき姿への理想に燃えていた気分を思いだせるだろう。日本民族という限られた中ではあっても彼らは言葉の力を得ていた。その高揚感以上の想いを私達はみ言葉に見出すべきだ。

0 件のコメント: