2011年2月7日月曜日

訓読会

天正宮の訓読会の様子を見ているといつも御父様が尋ねられることがある。集まった参加者を見渡しながら何処から来たのかを尋ねられる。私にすれば何処から来ても同じ食口だと思えるけれど、おそらく御父様に取ってはそれが重要で、だから尋ねられるのであり、そして食口の霊的背景を見ながら話される。み言葉の内容も何処から来た食口かで違ってくるのだろう。特別の日以外は必ず五時きっかり訓読会場に姿を現され、中心の中心の位置で訓読会の模範を示される。食口であれば誰もが見慣れた毎日の行事として、スクリーンの中を特に気負うでもなく眺めているけれど、御父様御自身が相当の犠牲を払って訓読の精誠を供えられていることは言うに及ばない。前にも記したことがあるが、ワシントンに来られて訓読会を指揮された時もやはり五時きっかりに御母様と御一緒に姿を現された。私の目だけにそう映ったのか、御父様はいつもとは違う御様子でたいそう疲れておられた。最初に口を開かれるのも時間がかかったし、決して力強い言葉とも言えなかった。しかし十分もしないうちに促された訓読を遮られて話し始められると、あとは時間を重ねる毎に強さを増して語られ、最終的に昼の一時をまわってやっとみ言葉を閉じられた。最初は参加した誰もが御父様を心配していたと思うが、心配すべきは尻や足が痛くなった自分の方だった。御年を全く考慮には入れておられないようだし、力の配分さえも無視しておられる。齢九十を超えた身体を叱咤されながら、全力投入の一日一日を積み重ねておられる。本来なら涙無しには、語られる御姿を眼に写すことはできないはずだ。今日には今日の全力投入の精誠を私達に差し出される。これが今日の御父様だ。今日の御父様の精誠だ。私への真の愛だ。想像したくもないが、これが途絶える時が遠からず訪れる。であれば、魂の奥の奥に今日の御父様の愛の形をしっかり刻み付けて、そしてこれが大きく実を結ぶ時を私は見るだろうし必ず見なければならない。何処から来たのか尋ねられる御父様は、緊張で固くなった食口の魂を開こうとされて、語りかけて居られるのかも知れない。

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