2011年2月19日土曜日
観念を考える
人間は何らかの観念を持ち、その観念の中で生きている。しかし私の中のみ言葉に因らない観念は偽りの観念であり、偽りの父母に従いながら育てていった観念だ。神様が初めに全ての環境的なものを創造されてから、土と水と空気で人間を創られた。その時の人間はゼロ点であって、人間は何らの観念も持ってはいなかった。今の人類はそのゼロ点に立ってサタン側の偽りの父母から受け継いできたものを否定して、新しく真の父母を起源とするものを私から出発させないといけない。そこには意味も存在も観念も、伝統も文化もない。ゼロ点からの再創造の出発だ。私が祝福を戴いて血統転換されて、真の父母に繋がる私であると認識されてから、私自身の再創造が為されてここまで来ている。内面は変わったけれど肉体は過去と同じ肉体だと思うのであれば、その思いは偽りの父母から来ている認識だ。内的なものが外的なものを産む。内的なものが原因であり外的なものは結果だ。だいたい七年も時を経れば人間の全ての細胞は生まれ変わっていて、七年以上前の内的な在り様を原因とした肉体細胞は存在していない。ひとりの人間に於いてそれが言えるように、家庭に於いても同じことが言えるだろう。家庭の中心に御父様を戴いて回転するようになれば真の家庭に似てきて当然であるだろうし、その確信を備えて中心をぶれさせないことが大切だ。大きくみれば自然にしろ宇宙にしろ、偽りの父母が今までは中心にあった訳で、偽りの父母を中心とする堕落人間の堕落的観念で自然や宇宙を主管してきたということができる。御父様が話されるように、自然を把握し宇宙を把握する数理としての乗除加減は堕落的なものからきている。本来の数理に立脚して把握し主管すれば、かつての自然の在り様、宇宙の在り様が死んでいたと言える時代がきっと訪れるだろう。自然や宇宙、それ自体では背後に神様の意図があるにはあるが未完成の状態だ。地上存在の人間の観念をもって背後の意図を認識し、包括し、把握して関わることで初めて完成に届く。自然や宇宙は人間の中で完成し、頂点に達する。自然を見て称えるのみならず、自然に息を吹き込み生命を与えるのが本来の人間だろう。そう見ればロマ書八章22節の被造物の嘆息の本当の意味が見えてくる。
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