2011年2月8日火曜日

心情の価値を考える

確かに食口は背負うべきものが多く、多くの家庭が重荷を背負っているのかも知れない。外的なことを言うなら家計の問題から始まって子女の問題、夫婦の問題、更に親兄弟間の問題と、背負っているものは多い。誰もが祝福が内的霊的なもののみならず、外的な事柄や、家庭であれ氏族であれ関係性の中や環境にも恩恵を受けるものだとの思い込みはあったはずだ。しかし現実として背負いきれないほどの重荷を掃えないものとして背負っている兄弟は多い。こんなはずではなかったと言うのが兄弟誰しもが先ず普通に感じることだろう。しかし一方で、普通に自然に、仕方のないことだと諦めているか、もっと難しい環境にいる兄弟だっていると比較して言い聞かせる自分もいて、信仰を辛うじて維持している。そこには恐らく統一信仰の道やみ旨とはそういうものだろうという諦めで自分を納得させている。しかしその溜息をつく冷め切った位置は御父様の喜びではないだろうし願いでもないはずだ。勝利であるとか完成であるとか、華々しい文字で語られるみ言葉と私とのギャップを皆はどう捉え、どう消化しているのだろうか。御父様やみ言葉は私に取っては理想であって理想は見上げるものだと変に納得して諦めてしまったのか、或いは兄弟の大半が御父様の勝利を私の勝利として既に実感しているのだろうか。そうであるなら希望だけれども、重荷を負って消化できずにもがいているなら如何に消化したらいいのだろうか。それをも愛であり、だからこそ愛なのだと断言できる私となってこそ重荷は消化できるのだろう。と言うより重荷が私への神様の信頼の証しだと捉えることができれば今までとは違うステージに立って対処できる。要するにもっと重荷を背負って神様を慰めて差し上げたいと思える自分であるべきなのに申し訳ない、という位置でこそ、私は正しく私が背負っているものに対していると言えるのだろう。それでこそ背負っているものに真正面から対し、甘受しながら、この流す涙が神様の涙なのだと実感し、神様の心情の位置にまで私の位置は飛翔して移動されて、神様と同じ心情圏を共有する。重荷を背負っているから愛されていないのではなく、重荷を背負うほどに愛され信頼されている。私達は心情と言う言葉を持っている。涙する恨を魂が咽んで震えるほどに抱える立場で受け取るのが心情だ。その心情の価値を認めればこそ自分が置かれた困難な状況を感謝できる。それは統一食口の涙の哲学だ。

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