2011年2月20日日曜日

嘆息から解放へ

被造物が嘆息しているように、み言葉から受け取るものと現実とのギャップに嘆息しているのが我々だ。被造物は真の主人を失い嘆息してきた。被造物が神様の身体であるなら体の主体である心を失ったまま、さまよい続けてきたのが被造物(宇宙)の姿だ。私の今の現実がさまよい続けてきた宇宙とリンクしていて、被造物の嘆息圏を私の置かれた現実の中で味わい生きている。宇宙の嘆息圏が解放されることが私の嘆息的現実から解放されることに通じ、逆に私がこの現実を解怨して嘆息圏から飛び出ることで、宇宙の嘆息圏を解放もしている。その意味で宇宙と、私の現実や人類の現実は繋がっている。そしてこうも言える。身体である宇宙に対して神様が宇宙の心の位置に立たれてもはや離れることは無いと言うことは、リンクしている私の心にも絶対的中心が備わったと言うことであり、宇宙が解放されるように私も解放されると言う結論が御父様の勝利宣言と共に確定された。だから現実として嘆息を引き摺っていたとしても、人類すべてが億万歳の位置に立っていると言うことだ。嘆く思いに身を預けるのではなく、私の感情を億万歳の位置に立たせて解放の歓びを中心的気分で生活すれば、私の魂の解放は加速度的に早まっていく。自然から受け取る感覚輪郭を飛び超えて、自然の内面を掘り下げながら、解放の歓びを探し出してくる訓練をすべきだ。花をただ美しいと他人事のように受け取るのではなく、花が生きて私に語りかけ、解放された花の感情を私の感情として共鳴させ、魂の刺激を体感するまでになれば、霊的感性は一度に開いていくだろう。理想という霊的事柄を魂に漲らせ、更にその魂様相が表情に行動に溢れてくれば、み言葉を知らない者が私に対する時、自分には無く見たことも無い光り輝くオーラを感じ取って、理由もわからず興味を覚えてくるはずだ。近くによって接すれば、真の愛の香りもかぎ、真の愛の味も覚えて、真の愛に酔いたいと引き込まれていくはずだ。

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