2011年4月30日土曜日

今日の想い 300

霊的感性を本当に育てようとするなら、外的環境を意識から排除しょうとするのではなく、逆に外的環境の中に溶け込むように入り込んで、自然や体験が私に語りかけるのを待つことが大切だ。進入するものを遮断しようとする私という輪郭を対象物に溶け込むほどに柔らかく希薄化させて、正しく問いかければ、彼らはあらゆる霊的知を差し出してくれる。私に霊的感性が育っていないのは、その輪郭ゆえに地上という感覚世界に住むと同時に霊界という霊的感覚世界にも住んでいる事実を受け止めることが出来ないからだ。その証拠として私の輪郭の外にあるものの多くを関係性の無いもの、敵対するものとして受け止めている。すべての存在物、私に対する対象物はその霊的背後を備えている。霊的背後という本質を差し出すためにはそれだけの関心と親和性をその対象物に持ち、私自身も素直に謙虚に差し出さなければならない。地上という感覚世界とは相容れない霊的感覚世界が対峙しているのではなく、大きな霊的世界に組み込まれ包まれるような形で感覚世界は存在している。この地上世界に様々なXとしての存在様相があって、それぞれが存在原因である霊的背後を備え、更なる背後を追求していけばその究極のゼロ地点に辿り着く。ゼロ地点は無ではなく無限大の陽性陰性を内包している。ゼロは無ではなく、無限大の計り知れない原因を内包しているという意味でOという記号を冠する。加減乗除の話を御父様がされるとき、ゼロは無という既存概念を認めておられないし、マイナスからプラスへの通過点がゼロという直線的二次元のみに限られる数値理解を超えたものであるため、加減乗除は間違いだという話になる。加減乗除を受け入れる存在であるということが、霊的感性を排除する存在であると共に、唯物主義的であり利己的存在だと言い得るのかもしれない。外界の本質に溶け込めない私の輪郭はこの堕落的思念で作られている。心と体は今日まで戦い続けてきた。その戦いが実感できないなら肉心に翻弄されていて自分の心すら確認できてはいない。戦い続けてきた心と体の間の深い谷間を埋めることで、この輪郭を突き破ることが出来る。この輪郭を突き破って私の霊的感性を開放する。

2011年4月29日金曜日

今日の想い 299

桜が散って、青々とした葉が茂り枝という枝を覆うと、既に夏の入り口を超えたようだ。蒸し暑い雨の夜が明けた朝の風景は、きのうの情景とはまるっきり違っていて、骨格が見えていた全ての木々はこんもりと緑を装っている。太陽が昇り始めると、日差しの強さは冬の閉ざされた光と違い、遮るもののない開放的な眩い光を直接に届ける。春から夏に変わる変わり目が何日の何時と言うほどに、これほどに明確な仕方で示されたことは記憶に無いけれど、それは御父様が話されるように私の感性が鈍いだけなのだろう。春の霊から夏の霊への交代式が為されると、春の霊は関与しない。季節の霊たちの交代の一瞬を感じ取れる私になれれば、自然に関与する全ての霊たちの声を聞き、彼らの感情を受け取れるかもしれない。そうして偉大な自然の力を彼らが差し出してくれるなら、生きるために働き生活するのではなく、働き生活するために生きているような、そんな本末転倒の人間様相が本来の在り様に変革されるかもしれない。青葉が朝の日差しを浴びて輝いている。全体として見ているけれどこの一葉一葉がそれぞれに生命の輝きだ。見慣れて何の感慨もなく見渡しているけれど、光合成によって取り出された酸素で生を繋ぐように、この一葉一葉から生命を戴いている。緑の輝きはまさしく生命の輝きだ。その輝きをただの外的表面的に受け取るのではなく、内面にも感謝と畏敬の想いをもって受け取るべきだ。とりわけWASHINGTONは緑の多い町で、機上から眺めれば緑の中に町並みが点在しているのがわかる。この緑溢れる生命の中に夏の間は町も人も包まれている。内面にその自然の力を受け取るなら、人間はそれを更なる愛の力に変えていく。生命の輝きを与える喜びに昇華させていく。

2011年4月28日木曜日

今日の想い 298

何が善で何が悪かわかっていない。自分の良心に照らしてみて、これが正しいと思える道をさも前進しているように思っているけれども、本当は自分の良心さえもわかってはいない。御父様にどこまでも着いていくという気分だけで今のスタンスを取っているが、それさえも曖昧なものであることは御父様の前に出てみれば良くわかる。御父様から直接に受けて、それでも御父様の言葉通り、指示通りに動けない自分がいるなら、御父様にどこまでも従っていくという気分は絶対的な頼れるものではないということだ。どこまでも沈む孤島にしがみ付き、どこまでも今の安堵に執着し、真の愛の世界を標榜していると言いながら今の自分の世界から飛び出そうとはしてしない。天国に向かおうとする今の自分の世界が自分の天国であって、それは向かおうとする気分に留まっていたいだけなのであって、御父母様がおられる天国に決して入ろうとはしていない。イエス様に従う弟子達は、十字架につけられ復活されたイエス様の前に立ってその愛の前に屈服し、押さえがたい衝動が悔い改めと殉教への意志を差し出した。生きて地上におられる御父母様へ向かう愛の衝動を、私達のなかに本当に見ることができるだろうか。愛によって生まれ、愛によって育まれ、愛によって導かれ、愛によって歩んできた。それが今になって何が善で何が悪かという判断に意志を差し出すなら、私は善悪に身を委ね善悪で裁かれる。しかし愛すること愛の衝動に意志を差し出すなら、私は愛に身を委ね愛で護られる。愛は裁かない。どんなに怒髪天を突く様子であっても御父様の指示は愛に違いない。そこに御父様の愛を見るのでなければ受け取る意味はない。愛の言葉、愛の指示に飛び込んでいけない自分がいるという現実を重く受け止めなければならないだろう。そして兎に角、願いに応える一歩一歩を踏み出すことだ。それが御父様に対する私の愛だ。それがどんなに小さくとも、無と一とはサタンの側に立つか神様の側に立つかの天地の違いがある。どんなに小さな愛でも、それは今の私が差し出す100%の愛だ。

2011年4月27日水曜日

今日の想い 297

アメリカの水産摂理は、任地を与えられた兄弟が御父様から百ドルを頂き、それを種として育てて全米を網羅する会社に成長させた。そしてレストラン摂理も水産摂理の一環として出発し、多くは日本からの資本でつくられたレストランではあったが、それだけでは願いに応えられず、全米の日本食口を集められて水産の出発と同じようにレストランも再出発した。くじ引きで任地を決められた数十人(おそらく百人)の兄弟は、レストラン開拓として種になる百ドルを御父様から受け取って出発しなおしたのだが、その願いに応えてできた店はおそらく一軒も無いだろう。そして今回、ラスベガスに於ける訓読会で御父様自らがくじを作られてくじ引きを行った。それによって決定されたことの意味の重大性を御父様は釘をさすように我々に念を押されたが、その場では受け取る風を装いながら、やはり何らかの言い訳をそれぞれが用意してしまって、言葉通りに受け取った兄弟はおそらくいないだろう。周りが見えなくて御父様と私だけという関係の中で指示を受けたのであれば、事の重大さを切実に受け取るだろうし、勿論内的戦いも激しく悶々とする期間を通過せざるを得ないのだろうが、そこを通過することで確実に新しい次元世界は目の前に開けたはずだ。しかし悲しむべきか、はたまた堕落の身に立てば安堵すべきか、中心者をはじめ居並ぶメンバーがいての一人となると、事の重大さは頭数で分散されて、さらに日本的に自分の周りを見回しそれに合わせてしまう意識が働いてしまえば責任は限りなく薄まり、まかりなりにも汗を流した自分の基盤のある所に帰ってしまうと今までと同じ毎日が繰り返され、慣れ親しんだ事情環境での生活に没頭してしまう。それぞれの魂の奥に刻み込まれた御父様の言葉を封印してしまって、受け取った事実も実存する御父様の指示もなかったかのように意識の光を宛てずに済まそうとすれば、いままでもそうだったように、更なる眠りの体制に入るしかない。そういう堕落的プロセスを辿りながら、自分の中に封印されている多くの成就されない言葉の生命がある。しかし遠からず、封印されて硬く閉ざされたそれらの蓋を開け放さざるをえない時が来る。その時に霊人体が砕け散らないように、灰を被りながら血の汗を流す切実な悔い改めを迫られるだろう。御父様に従う道は祝福と恩恵をいただける道であると同時に、自らが自らを裁く恐ろしい道であることも覚悟しなければならない。山が高ければ高いほど、峡谷の深みは地の底をえぐるほどに深いものだ。

2011年4月26日火曜日

今日の想い 296

イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れ、ゲッセマネで最後の祈りをされる。魂が悲しみのあまり死ぬほどだと言われながら、留まって目を覚ましているように彼らに伝えられた。切実な祈りを終えて来てみると彼らは眠っていたので、誘惑に陥らないように目をさまして祈っているように伝えられた。また離れて行って同じ言葉で祈られ、またごらんになるとまだ眠っていた。三度目に来てもやはり眠っていた。そして人の子は罪人らの手に渡される時が来たとイエス様一人で行かれることを決意された。最も弟子達を必要とされるときに弟子達は眠っていた。何度喚起されてもやはり眠っていた。しかし当時の弟子達を私達は非難できない。私達も同じように、御父様が直接的な指示を出されても私達は御父様の願いに呼応できずにいる。何だかんだ理由を付けて、そしてその内に、受け止める風は装っても出来ない事やれない事に慣れてしまっている。私達も眠ったままなのだ。重大な摂理毎に何度喚起されても、やはり眠ったままなのだ。イエス様の弟子達は心は熱していたが肉体が弱かった。事実眠りに勝てず、眠りという無意識圏に連れて行かれてしまった。しかし私達が彼らより劣るのは、私達は意識がありながら眠っているということだ。眠らされているのではなく、眠っている。自分で勝手な理由や都合を付けて行動できない状況を作っている。言い訳ばかりが頭の中をグルグル回転している。御父様は、百人兄弟がいれば百通りの言い訳を聞かされなければならないだろう。千人いれば千通りの言い訳が、ベットリした湿気のように纏わり着いてくる。私は御父様に侍る存在ではなく、言い訳だらけの邪魔にしかならない負担の存在になっていないだろうか。やることはやらずに貰うことだけが私の在り様なら、貰い受けてもその価値を見出せずに殻だけを有難そうに受け取ってその本質は私の体を素通りさせてしまう。苦労し精誠を供えることから逃げるなら、戴いた祝福にしろ解怨の恩恵にしろその本質からますます遠ざかっている。自ら進みでて、苦労の道をわざわざ選んで入っていくときにこそ、その本質への鍵は開く。いろんな苦労を味わい乗り越えながら、精誠を供えながら、実は究極の祝福の本質を受け取る為に、迷宮の隠された道を見出し閉ざされた門の鍵をひとつひとつ開けていくRPGをしているようなものだ。天地開闢という言葉は、私に於いては深い眠りからの目覚めを意味している。

2011年4月23日土曜日

今日の想い 295

胎児は十月十日母体の中で過ごして地上世界に誕生する。母体の中では羊水に満たされ、羊水の中に浮く形で胎児は成長していく。地上生活を終えて霊界への境域を越えると、霊人体は愛に満たされた霊界を次元を越えて飛び回りながら活動する。胎児は用水の中に浮き、霊人体は愛の中に浮いている。しかし地上生活の肉体は大気の底で重く沈んでいる。どうして地上生活だけが大気の中に浮くことが出来ずにいるのか。そんな疑問を持つこと事態おかしいと思われるけれど、ここまで密な重い肉体様相になった背景には堕落的なものが関与していると私には思える。御父様が人間の体温上昇について話されたことに対して、どういう我々の理解を望んでいるのか詳細は掴めないにしても、その部分にしろ体全体にしろ温度上昇を受け入れる為には、今の密な体細胞の在り様では困難だろう。分子間の希薄化が必然として要求される。希薄化が可能な体は浮くことも出来るだろうし光ることも出来る(ような気がする)。思考は頭で行うものであると当然の様に思っているけれど、実は他の器官も思考する。手だって思考している。すし屋だからすし職人の話をするが、ある程度の訓練をすれば感覚でシャリの重さをを均等に握れるし、すしネタの切りつけだってコンマグラムまで合わせることができる。そう言う場合、手が思考した結果を熟練の仕事に見ることができる。頭でどんなに思考しても結ばない結果を熟練の仕事に見ることができる。手が思考するとき、手は分子間が緩み希薄化している。地上生活に限って人間が大気の中に浮かないと言ったけれども、器官によっては浮いた状態にある器官もある。特に思考器官である脳は脳脊髄液という液体の中で浮いた状態にある。この浮いた状態が脳の活動を活発にしている。魂の活動である思考を通して人間は高次の霊的認識への道を、そしてイエス様がもたらした霊的救いの認識もこの思考を通して為されてきた。さらに私達は悟性の発達したこの思考を通してみ言葉を認識している。思考をますます柔軟にし希薄化させながら更なる霊的認識に至って行くことができる。御父様のみ言葉を理解しようとするならそれが大切で、加減乗除では解けない御父様のみ言葉を理解不能と結論付ければ、堕落の地上的な重い質量の中に閉じ込められたままだ。再臨のメシヤは雲に乗ってこられるという霊視された聖書の言葉は、地上的意味で捉えれば間違いであるけれども、霊的意味で捉えるなら、思考を柔軟にし希薄化させて霊的高みの位置で御父様に会うことができると言う意味で荒唐無稽な言葉ではない。

2011年4月21日木曜日

永遠という認識

夕、夜、朝、昼という周期が一日であり、この周期を一サイクルとし螺旋状に未来という前方に進んでいる。前方に進みながら春夏秋冬の新たな周期を、一年という一サイクルとして大きな螺旋状を描き未来という前方に進んでいる。ここまでの理解は大方に得られるが、さらにこの一年サイクルが螺旋状に前進しながら、より大きな次元の宇宙年という周期をつくっていることへの理解は得にくい。霊的認識の欠如した現代人にとって、個人の地上の生に関する事のみが関心事であり、悠久の時を航海する存在とはなり得ないからだ。自分という個人への執着が限定的な生に踏み止まらせ、それとは逆に他を意識し愛しひとつになろうとし為に生きる生こそが自己の開放であり永遠存在の生として悠久の時を航海していくことができる船になれる。み言葉を受け止め霊界を信じる兄弟でさえ霊界の永遠的な生活を地上の意味での永遠と捉え、霊界という地上に似た世界が広がっていてそこで永遠に生活するという、時を重ね続けるという永遠の認識でしかない。地上という有形実体世界がひとつの次元であるのに比べ霊界という無形実体世界は多次元に及んでいるように、自己愛を超えて家庭を愛し、氏族を愛し、民族を愛し、国を愛し、世界を愛すると言う様に、それは他の喜び悲しみが私の喜び悲しみ、世界の幸せが私の幸せだと言えるほどに為に生きる愛の領域を広げることで、地上的個人的な永遠の概念を超えて人類の行く末を御父母様と共に見守り関与もすることができる霊界的全体的な意味での永遠存在となれる。私の使命と願いを愛する子供に託すことが出来れば、私は子供の中に生きるのであって私の肉体が朽ち果てても生き続ける。私の中に血統として繋がるものが生き血統として繋がるものの中に私が生きるように、私の中に世界や宇宙が存在して生き、世界や宇宙の中に私が生きる。そして私の中に悠久の歴史が生き、悠久の歴史の中に私が生きる。即ち愛の版図を広げ愛する者のみが希望的未来を捉えて開拓し続け、愛することを止め希望を失わない限り永遠に時は刻み続ける。家庭への愛のサイクルが氏族へのより大きな愛のサイクルを作り上げ、氏族への愛のサイクルが次元を上げた民族への愛のサイクルを作り上げるというように、愛の次元を高める事と一日が一年に、一年が宇宙年のサイクルにと永遠足らしめる時間のサイクルを把握し認識する事とは対になっている。愛の発展なくして時間の発展はない。時がここまで流れて来た意味は神様が愛し続けてこられた証であり、今にも神様が愛することを放棄すれば一瞬にして時は止まり宇宙は消え去る。

2011年4月20日水曜日

今日の想い 294

地上に於ける創造の最高傑作が人間の形姿だ。人間形姿を地上的な神の似姿として賛美したのがギリシャ文明だが、それ以前のどこか適当で滑稽な、象徴的描写を表わした遺跡に見る人間形姿に比べ、ギリシャ彫刻に見る人間形姿には、神話の神々が今にも動きそうな表し方をされている。人間の肉体から堕落した心魂を取り出したなら、肉体そのものは地上における神の宮と言える。ようするに私は神の宮の中に住んでいる。肉体に相応しくない心魂が宿り、自己中心主義の権化が肉体を思うままにしている。自分が住まう肉体のみならず他の心魂が住む他の肉体も思うままにし、即ち肉欲で自分の身体も他の身体も蹂躙している。この目は神様が見たいものを見る目であり、この耳は神様が聞きたいものを聞く耳であり、この手は神様が触れたいものに触れ創造したいものを創造する手だ。そこに気付こうとはせず堕落の心魂の思いのままに振舞えば、本来光り輝く身体はその光を失い動く屍になってしまう。内的霊的感性が鈍っていると分からないが、堕落的行動によって肉体が光を失い鈍化し、更に柔軟性を失い凝り固まる様相が伺える。人間形姿はそれ自体が美の頂点にある。彫刻や描写を通して人間形姿の線と面を美しいと感じる目は、神様が見たいものを見る目の要素に溢れているけれど、そこに肌の色合い、肌の柔らかさ暖かさが加えられ、更には動きや表情に表れる原罪的なものへの期待が見る者の目に混入されてくると、その目は多分に堕落した心魂の肉欲に毒されていく。私達は未だに内的霊的感性が鈍いから、見るな触れるな堕落するなと言われた言葉に従うのみで、大まかな憶測のままで行動しているけれど、霊的感性が冴えてくると心魂の動きや行動ひとつによって欠け落ちるものや、毒々しく流れ込むもの蝕むものを見るようになる。御父様が言われるように、愛し合ったならば、男性女性の部分、それ自体は同じだが、既に変わっている、堕落して変わったということを知らなければならないと、話されることも理解できる。人間形姿という透明な輪郭の内側に私という心魂が何を持ち込むかによって霊人体の様相は変わってくる。

2011年4月18日月曜日

今日の想い 293

貰えるものは貰おうという小汚い性根がこの歳でも表に出てしまったのか、壇上に近いほうが受け取る恩恵も大きいと、よせばいいのに前の方に席を取ってしまった。積み上げられた音響設備から空気砲のように音が飛び出してきて、私の内臓を揺さぶり心臓を刺激する。舞台の上に設置された照明器具の中には直接客席を照らし出すものもあって、時折発射される光線にさして強くは無い私の目は眩んでしまう。でもこれぐらいの刺激を若者達は求めているのだろう。周りを見回すとリズムに乗って体を揺さぶり、泣くような電気音に感情を委ねているようで、特にウェスタンや若い者達はテンションを上げている。古い者が慣れ親しんだ教会礼拝の在り様を変えるこの状況に、努力しようにもなかなか馴染めず浮き上がっている、いや一人深く沈んでしまって浮き上がれない。激しいリズムと大音響に体が揺さぶられれば、それによって魂も揺さぶられ、頑なだった感情が開いて聖なる霊を受け取れるのならそれに越したことは無いのだが、教会の狭い門戸を大きく開くことで、多くの人たちが集まってくれることを第一に願われているのであれば、伝道に繋げるべく、どういろんな社会団体、宗教団体に接触もし、宣伝もし、中心の想いの込められた音楽礼拝に足を運んでもらえるかを教会食口は考え行動しなければならないだろう。繋がっているいつもの兄弟だけで集まって、盛り上がっているのはどうも違うような気がする。自分の子供も連れて行っているけれど、何事にも冷めた態度で接する彼らは、集まって盛り上がっている他の二世達の中になかなか入っては行けない。本質的なこととは異なるので、歌って踊って楽しんでいるグループの中に押し込める気持ちはないのだが、出会いという入り口にも入って行けない自分の子供は、それはそれで大きな問題ではある。兎に角二周年ということだから、これから芽を出して成長してきた活動が実を結んでいくことだろう。繋がっている教会牧師のパワー溢れるクロージングプレイは、響いた音楽以上の響きを会場に届けて、その存在感を顕していたのが印象的だった。

2011年4月17日日曜日

今日の想い 292

この世の栄華をあの世に持って入れないように、どれほど花々に埋もれ色彩溢れる景色のなかで生活したとしても、花の美しさにある本質を受け取れなければ、私の内界に花は咲かない。外界では、誰からも見届けられず、それでも精一杯の美しさを差し出し咲いて枯れてゆく野の花を、むしることもできるし踏み付けることもできる。愛でることもできるしいとおしむこともできる。私がどんな態度をとりどう取り扱おうとしても、花は花としてそこに存在している。しかしそこに存在してはいるが、私の中にも同じような花の在り様が存在していると言えるだろうか。どんな状況であっても精一杯生きることの美しさを差し出す、野の花に負けない意志を備えているだろうか。私の中に存在させて花を咲かせなかったら、花が咲き乱れる地上という外界に身体を持って生きている意味は、花に関する限りは学んでいない。地上を生きた生を終え、霊界に赴くとき、私の内界に受け取ったものしか持っていくことはできない。この感覚の世界そのままに、霊界に於いても一様に同じ世界が広がっているかのような印象を持っているけれど、花を咲かせる内面の力をもって花を存在させ、東西南北への広がりをつくる内面の力をもって移動できる空間を存在させ、この世を照らすことのできる光源体となってこそ霊界は明るくなり、即ち十二対象の愛という内面の力を備えて、霊界に於ける十二の真珠門は開かれ自由に往来し自由を得ることができる。この地上には霊界生活の為の全ての教材が揃っている。今日には今日の周囲に広がり刻々と変わる事情圏環境圏が私の教材だ。柔軟な内的態度で接すれば、体験する全ての事柄が私の内面の力を育む媒介となる。悶々ともし、もがきもする鬼に押さえつけられているような人生の暗雲路程も、悩み苦しみの多い分だけ学んで受け取る内的力も大きい。新しい世界創造、宇宙創造のために必要とされる内的力を育むべく、御父様と共に歩む路程が生易しいはずがない。全人類の悩み苦しみを背負う覚悟と決意が必要だろう。御父様と一体となってみ旨を歩めば、新たな世界、新たな天宙を創造建設しておられるみ旨に同参した立場であって、天国という御父様の新たな宇宙は私の宇宙でもある。御父母様を慕い侍ろうとするその意志の力を養うことで、私の中に花が咲くのを見、私の中で枷が取れたような自由な広がりを見、私の中に朝日が差し込んであまねく届けられる光を見る。

2011年4月16日土曜日

今日の想い 291

御父様の路程がどれほど多難であったか。御母様の路程がどれほど犠牲的生活であったか。私達が知らない、知ることを許されない悲痛な歩みが御父母様の笑顔の背後に隠されている。子供が小さいうちは、親の事情を知らずとも、抱かれてあやされていれば何の不信も覚えず親に全てをゆだねている。しかし成長して多感な時期に入ってくると、父と母の間のいろんな事情が気になるし、詮索し始めたりする。それはあら探しをしてケチをつけたいが為にそうするのではなく、愛ゆえに全てを知りたいし、全てを知って事情を共有したいという愛の衝動がそうさせる。何も知らず知ろうともせず、幼い子供のままでいて、永遠に親の愛の懐のなかでまどろんでいれればそれでいいと思えたとしても、親はそうは思わない。子供が成長して親を超え、注いだ以上の愛を子供から受けてみたいと思うのが親の情だ。私達は何も知らないまま、いや、知ろうともしないまま、御父様御父様と呼んでいればそれで良かった期間も確かにあった。それを幼子の信仰と呼べるのかどうかは分からないが、今の事情や環境のなかで、頑なに純粋であり続けようと外からの情報を内側に届けず考えようともせず、何も知らない風を装っていたとしても、確実に周りは混乱しその混乱に身を預けることになる。敢えて知ろうとせず、知っても軽く流して、そんなこともあるだろうと言うのであれば、そういう兄弟もいるにはいるが、私に言わせれば深い関心を持たずに浅い信仰、心情のままに留まろうとする、距離を置いて深く関わろうとしない、いてもいなくてもいい類に入る。多くの批判的サイトを見ながら、中には中傷誹謗だけを書き連ねているだけのサイトがある一方で、ここまで深く調べ深く考えているのかと、周りの食口以上に御父母様に関心を持っているサイトもある。それは元と名のつく離れた兄弟によるものが多いが、論理の中で突き詰めればそういう結果を取らざるを得ないのだろうが、更に踏み込んで論理の境界を超え、心情世界即ち霊界に入っていくことが出来れば御父様に対する態度は180度変わるだろう。迫害の先鋒に立っていたパウロが回心したように、御父様に対する現代のパウロは反対派の中に何人もいるだろう。もう既に彼らは気付いていてタイミングを計っているのかも知れないが、御父様を堕落世界の論理や感情で常識的に測ることは出来ない。御父様はほんものを探しておられる。そしてほんものでしか御父様については来れないし生き残れないし、ほんものでしか創造権、主管権を相続できないだろう。全ての霊界の境界が撤廃されたように、教会のなかにいれば全てが護られ、教会の括りによってだけ救われる訳ではない。ただの信仰的雰囲気で御父様を慕い侍っている風を装うのではなく、御父母様の心情圏を訪ねていって、そこから起こる押さえ切れない衝動で真に御父母様を慕い侍る者達こそほんものだろう。

2011年4月14日木曜日

今日の想い 290

ネット社会はありとあらゆる情報が手に入る。知らなくてもいい、或いは知らないほうがいい情報も入ってくる。教会の情報、真の家庭の情報、自分の手に届くところにあれば覗いて見たいし知りたいと思うのは当然であって、見るな聞くなと釘をさされれば余計に鼻を突っ込みたくなるだろう。さあ、得た情報に対して私の判断の基準をどこに置くのか、それが私の責任において要求されることだ。疑いようの無い真実が私に差し出され、奇麗事では済まされない御父様や御家庭の内容を提示されて、私はこれを飲み込めるだろうかと食口の全ては自分に問うことになる。この世で培ってきた常識や道徳から逸脱した一つ一つの事柄は、常識人であればあるほど受け入れ難く、人によっては肥溜めから糞を取り出して口にしろと言われるような試練を味わうことになる。確かにある期間、情報は統制されていて、個人の信仰に余計な波風を立てずにある意味天に護られて信仰生活を歩む期間はあった。そして世界が急激にネット社会に様変わりしてきたことで、良くも悪くもあらゆる情報にふりまわされる時代になってきた。防波堤を大きく超えた情報の津波に翻弄されながら、全体の垣根を越えて襲い掛かる非常識な真実を、飲み込めるのか飲み込めないのか、消化できるのか出来ないのか、今個人の次元にまで下ろされて試練されている。自分の中にあるあらゆる罪や堕落性が思考や感情の根底にも巣食っている事実を無視して、自分の判断や好き嫌いの気分に委ねてしまえば、その時点で信仰は絶たれるかもしれない。しかし私達が戴いた祝福は、堕落的魂の奥の根底に植えつけられた霊の本質であって、よって魂活動をも超えうるものが自我に波打っている。それが祝福を戴いた統一食口の天宙的現実だ。私達はその意味でこの世的現実の常識を超え道徳を超えている。それはけっして常識外れの人間になれと言っているのではなく、常識や道徳で采配すべき事柄もあるにはあるけれども、御父母様の価値を常識と道徳の秤で判断することはできない。泥沼のなかで咲く蓮の花が、泥沼と何の関わりも無く命を繋ぎ花を咲かせる訳ではない。泥沼の中に根を張り、泥沼の養分を吸いながら、しかし同化して染まるのではなく確実に蓮の種族としての精神を宿していて、それが混じりの無い真っ白な尊い花を咲かせている。御父母様と御家庭の歩みもそのようであって、世間がどう見ようとも天の血統が脈打っているのであり、サタンと関係のない真っ白な精神として地上に咲かれる。特にラスベガスを中心的摂理として根を張られる御父様を見ていると、泥沼に咲く蓮の花が私のイメージの中に想起されてくる。

2011年4月12日火曜日

今日の想い 289

マルコ伝13章32節に、その日、その時は誰も知らない。天にいる御使い達も、子も知らない。ただ父だけが知っておられる。気をつけて目を覚ましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたは知らないからである、とある。摂理完遂が近付くと共に戦いの絶頂期を向かえ、最後の峠を越えようとしている。しかし私達は戦いの真っ只中におりながら戦いを認識しているだろうか。全体摂理の戦いであって、個人の戦いが繰り広げられているという認識が全く無いか薄れてしまっている。これは明らかに万民の個としての戦いでもある。個という小宇宙に於いて、外的肉体的戦いではなく内的霊的さらには本質的戦いが繰り広げられている。その実感が無いなら、私は眠ったままであって目を覚ましてはいないということだ。この聖句が再臨のメシヤである御父様を知らない者達への聖句であって、私は既に目覚めて御父様を知りみ言葉を知り今のこの時を知っている、そう思い込んでいる。私達ははっきりと知るべきだ。私達は何もわかってはいない。わかっていないことを知って臨むのでなければ、御父様はいつまで経っても私の真の御父様とはならない。今の私と御父様との内的距離がどれほどのものであるか、堕落的私は私自身を誤魔化しながら御父様とのある程度の距離を置いて安住している。私流の御父様を神棚に祭って、実のところ視界の外にあろうが埃を被っていようが気にもしていない。御父様を中心にいただいて慕い侍っているという思い込みだけであって、御父様の輪郭と表情を備えた、堕落の私の妥協的な産物を拝んでいるだけだ。この聖句は実は他の誰でもない、御父様を知る私達に最も注意勧告されるべき言葉だろう。内的戦いの只中に明け暮れている私を実感し、私の中のサタンを凝視し、逃げずに戦いを勝利する為には御父様にすがらざるを得ず、み言葉で武装するしかない。その切実さを知っている者だけが本当の意味で御父様を尋ね、み言葉を受肉し、この戦いを乗り越えて勝利することが出来る。

2011年4月9日土曜日

今日の想い 288 (地動説に返る)

現代人は自分の存在を認識しようとするとき、外的捉え方が先ず為されて外的な存在位置を認識し、その上で内的位置を捉えていこうとする。大宇宙があって銀河系があり、更に太陽系があって地球が存在し、その環境圏故に私が存在して、考え感情し行動しているという認識だ。周囲の環境圏があってその中にポツリと置かれた私だという認識を当たり前としている。よって周りの出来事は基本的に私とは関係なく、私の思考、感情、行動に関わる限りにおいて関わらざるを得ないと思っている。しかしこの当たり前としている存在認識は実は思い込みから来ている。実感こそが現実であり、あとは思い込みに過ぎない。私という存在の位置付けを思い込みに拠って認識しているから、いつまでたっても真理を実感できない。原理のみ言葉を実感として受け取ろうとするなら、思い込みを捨てなければならない。誤解を招くことを恐れずに言うなら、地動説を捨てて天動説に立つべきだ。心を主体に立たせるなら、宇宙があって私があるのではなく私があって宇宙がある。更にその宇宙も私の実感として関わる以上の存在は霧の中であって、もし自分個人だけに関心があって自分の生活だけを実感として生きているなら、彼にとっては自分だけが宇宙だ。家庭が自分の事以上に関心があり心配しているなら家庭が宇宙だ。自分の周囲とどの程度の関わりを持っているかと言う、自分を超えて愛の関係性を持っている範囲に於いてのみ私の宇宙は広がっている。御父様があなた達は、反対になっているので南と北、東と西が分かれていることに気付かないと話されるのは、宇宙認識が観念的、思い込みであって内なる実感としてありありと捉える宇宙ではないからその意味するところさえわからない。反対にならずに私が内から外に向かう本当の宇宙認識を得るなら見えてくるはずだ。OXの話もそのように、実感のない思い込みの宇宙があって私があるというXの存在認識だけではOの概念も理解できないし、Oの中にはXがいくらでも入る事は出来るが、Xの中には、どんなに小さなOであっても入れないと話されるような内容はチンプンカンプンだ。Oという宇宙は、為に生き犠牲となることができる環境圏の拡大による宇宙で、主管できる私の本当の実感的宇宙だ。(いつも言っているように私の独断と偏見による仮定でしかありません。私の拙い仮定をたたき台にして真理へと目覚めていただければ嬉しいです。)

2011年4月7日木曜日

桜に想う

春の嵐が吹き荒れた後の今日は、初夏を迎えたような陽気で、日差しもかなり強かった。五割方散り落ちたものの、残された花は散って行った花の想いも受け継いだように一途に咲いている。木々の青葉の新芽を見届けるまで、咲き続けて春の霊を誘い続けるのが桜の花の存在意義であり使命とも言える。春が来たから花が咲くとも言えるけれど、花が咲くから春が来るとも言えるはずだ。主体対象間に於いて与えて受けると共に、受けて与えてもいる。春の霊が桜の精霊を呼び起こせば、目覚めた桜の精霊は春の霊を慕い続ける。春の霊はますます宇宙の彼方から、満開の桜に誘われてその愛に酔いたいと地上に降りてくる。可憐で一途な桜の想いを無視することは彼らには出来ない。嵐が吹き荒れても、その一途な想いが力となって簡単に枝から離れることはないし、その姿勢を見届けて無視するほど、彼らは堕落人間ほどに愛に疎くはない。春の霊が愛に誘われて地上に押し寄せたから地上は一気に春の様相で、今日のこの陽気になった。自然の愛の物語は私が目にする至るところの背後で繰り広げられている。目にしているものはその結果に過ぎない。彼らの愛の物語を聞いて欲しいと、地上の精霊達が心を赦すほどに私の愛に対する感度が備えられるなら、全ての万物は愛おしくもその霊の姿を現すようになる。何とも少女趣味的に思われるかも知れないが、私達はそういう繊細さを備えなければならない。繊細であればあるほど大胆になれるからだ。極と極は相通じるようになる。優しくなれればなれるほどに本当の強さを受け取る。優しくもか弱い桜の花びらは、私達が知らない本当の強さを差し出してくれる。桜の散り行く様を潔しとする日本の精神は、実は犠牲になる力を桜から受け取っている。今、統一食口はそれを受け取るべきで、日本の精神を失った今の日本人達に受け取る器は用意されてはいない。

2011年4月6日水曜日

今日の想い 287

暖かい日が続いて、アパートに囲まれた庭の十数本の桜が一斉に花開いた。しかし開花した翌朝には暗いうちから冷たい雨が打ちつけ、更には強風が吹き荒れて枝という枝を鞭のようにしならせると、可憐な花びらの多くは力尽きて散り落ち、昼過ぎには薄緑の芝生をまだらに染めている。それでも夕方には薄く晴れ間も見えてきたので、この機会を逃すまいと妻と娘を急き立てて中庭に出てみた。本当は晴れ渡った青い空を背景にした、大木の下から眺める桜が好きなのだが、うす曇りで更に暮れかかっているとなると、同じ色合いに沈んで映えることはないだろう。それでも庭の中央に立ってみると、思っていたほどに散り落ちてはいなかったけれども、案の定見当通りで、枝振りのいい桜の下から仰いで見ても雲のグレイに沈んだままだ。二人を適当な位置に立たせて、カメラアングルを探して散り落ちた花びらの上を足を進めていくのだが、何とも痛々しい心持になってしまい、早々にシャッターを押して切り上げた。丸一年を超えてやっと咲かせた短い命は、自然の摂理に更に短くされて、誰の心の目にも届けられずに散り落ちていく。その儚さが伝わってきて、道端に吹き寄せられた花びらを優しく撫で集めると、両手ですくって持ち帰ることにした。五十を超えるおじさんが口にする言葉ではないけれど、風に飛ばされないよう優しく手の平で包んで持ち帰りながら、初めて異性を意識した時のような気恥ずかしさが蘇ってきてうろたえた。まさか気付かれなかったとは思うけれど、それをどうするのかと視線をよこす妻の野暮な質問には肩をすくめて見せながら、食器棚から紺色の器に水を張って花びらを浮かべてみた。これが今年の桜の花だ。この花びらの一つ一つにも宇宙の精誠が込められている。誰からも見届けられず人知れず枯れていくこの小さな花びらにさえ、数え切れないほどに重ねてきたどの春にもなく、この花びらはこの花びらにしかない精誠が込められ、創造の妙味が形となって私だけにその姿を見せている。これもまた一期一会だ。み言葉の本質を受け取れず、生き延びることだけに汲々としている私の在り様は、このひとつの花びらの優しさにさえ追いつけずにいる。しばらく見つめていると桜の精が話しかけてくるようで、更に何かしら酔い心地になってしまったようで、水を吸って浮かんだ薄桃色の花びらから目を逸らせた。

今日の想い 286

映画やドラマを見て感動を覚えても、それは非現実時空間に過ぎない。では生きて生活している現実空間に於いて、スクリーンの中を超えるどれだけの心情的な時を刻んでいるだろうか。統一食口であるなら、為に行き犠牲となる生を標榜しながら、心情的影響を周囲に与えているかどうかを自分に問う必要がある。み言葉を知らないこの世の人達を感動させたことがあるだろうか。犠牲的愛に生きるなら生活自体が彼らに感動を与えこそすれ、実入りが悪くて政府に生活保護を要求するような恥を曝すことはないだろう。目の前の人に要求しているのではなく国が出すものだから貰って当然で、何の非難されることもないと嘯いている。そう言う者に限って献金袋が回ってきても、小銭を入れて満足している。生活が主体で心情は二の次なのだ。体が主体で心は申し訳なさそうに体に隠れている。み言葉の本質を受け取って、為に生きる犠牲的歩みを信条としているなら、見る者が見るなら御父様の姿を彼に見て涙を禁じ得ないだろう。マイナスの位置にへりくだって行けば行くほど、宇宙的調整が働いてよりプラスを呼び寄せる。そうして用意された心ある人々は集まらざるを得なくなる。祝福家庭として御父母様の代身として歩んでいるなら、せめてみ言葉の実体に成り得ていない自分を申し訳なく思うべきで、三度三度の食事をするのも、鼾をかいて寝ることも憚られて当然なのだ。あれだけの震災を被りながら、略奪暴行も起こらず統制が維持されている日本を各国は賛美しているけれど、日本人が日本の民度を越えて見上げるものを、統一食口は彼らに提示して御父様を証ししてきただろうか。私達の根性が彼ら日本人に取っては御父様の姿であり、私達を見て御父様を判断している。天宙復帰の為に国さえも売ると言える人間は、誰よりも国を愛している者であればこそ言い得る権利があるのであって、国も愛せない人間が天宙復帰などと声高に叫ぶべきではないだろう。それは唯の売国奴だと言われても返す言葉はない。私は愚かにも四十年近く経ってやっとそれに気付き始めた。私は明らかに御父様を受け入れない日本の責任を負っている。日本食口の讒訴も受けるだろうけれど、日本の民族霊の讒訴も受ける。世界会長が義援金を用意して下さって、日本への愛を示して下さったことは本当に有難かった。そして日本の責任者が、何が起こるか知らない日本から逃れようとする浮き足立った者達をたしなめられた事を聞いたとき、本物の成約聖徒が日本に立っていることを心強く思った。

2011年4月5日火曜日

今日の想い 285

普通、初代が基礎から作り上げて成功したひとつの会社に取って、次代への移行は最大の難関となる。跡取りが初代の業務をどれほど完璧に引き継いだとしても、それは多分に外的表面的な事柄であって、本質を引き継いだということにはならない。会社としての骨を引き継いで貰い受け、血の流れまでも先代と同じにということになるとほぼ不可能に近いが、初代がそれを望み各部署が慣れ親しんだ先代との繋がり方に固執すれば会社は立ち行かなくなる。次代への移行を成功させる為に培われた知恵のひとつは、初代の路程を象徴的にも次代に歩ませるということで、いろんな会社や組織で行われている。子会社や兄弟会社、或いは取引銀行を介して紹介された同業会社などに、言うなれば奉公させて、何も無かった初代の出発点に立って創造路程を象徴的にでも歩ませる。そうしながら外的業務に通じるようになることもそうだが、それ以上に本質的なものを相続していく。その過程を経て次代社長に引き継いだ会社は移行の成功率が高くなる。血の流れまで同じと言う訳にはいかなくても、本質が相続されれば異なる流れであっても新たな血は流れて循環していく。新たな血流は新たな時代を生き残る為に必要だ。実は宇宙創造も第一宇宙様相から第二宇宙様相、更に第三、第四様相の現宇宙まで、その都度、先代宇宙の創造路程を出発点から繰り返しながら辿ってきた。しかし辿る路程は同じ繰り返しではなく次元を上げて、即ち一の位から十の位、十の位から百の位と言う様に次元を上げて繰り返してきた。宇宙であっても会社であっても、そして家庭であっても原理原則は変わらない。次へのバトンタッチは同じ次元では引き継げない。私達は今二世の課題を抱えている。二世教育や二世への接し方を真の家庭や先輩家庭の状況から学び、あらゆる知恵を出し合いながら探り出そうとしている。二世は祝福子女として原罪のない位置で生まれると言うことの意味が理解されずに、一世である我々はあらゆる幻想を二世に抱いていて、それが更に二世教育を難しいものにしてきた。蓋を開けて見たショックから立ち直れないままで、どうしていいのやらわからない兄弟も多くいる。一世に信仰がないから自分の子供が問題なのだと、切って捨てる言い方では何も解決しない。私達は本当のところ、まだ何もわかってはいないと言う事を再認識する必要があるだろう。酒を飲んではいけないタバコや麻薬に手を付けたらいけない、あれは駄目だこれも駄目だ、しかしこれはしなければならない、我々がそうしてきたように子供達にも規律を宛がえている。何もわかっていないから自分に規律だけを宛がえ、それを護ることで安心してきた一世の在り様をそのまま二世に押し付けても無理がある。先の先代会社の次世代への移行には本質の移行が重要であるように、一世が統一信仰の本質を二世に相続させるべきだけれど、一世自体がその本質を受け取ってはいない。自分の子供は祝福を受けたと喜んでも、自分はやるべきことをやったと自負しても、それは本質とは関係が無いかも知れない。為に生きる犠牲になるという在り様が魂に貫かれているかどうかを自分に尋ねてみるべきだ。統一信仰の本質を受け取ればそういう生き方になるだろうし、規律に合わせて言われる事に合わせたとしても、欲が外的なものから信仰的らしきものに変わっただけで、結局は自己満足で終らせている。神様が願われる二世の在り様は、未来を担う二世からその芽を出すのであり、一世が口を尖らす前に未来を担って頂く二世に対して侍る気持ちが必要だろう。私が清算せずに残したものがあるなら、それは誰でもない彼らが背負い払っていくのであり、彼らに託すしかない。

2011年4月3日日曜日

啓示について

”私は天の啓示、霊界の啓示を受けた”、と誰かが言ったとするなら、それは非常に注意深く接するべきで、啓示がどういう方法で届けられたかをよくよく見なければ、その言葉や指示を鵜呑みにすべきではない。古代人の意識の在り様は簡単に言えばミツバチや蟻と同じような在り様であって、一つの全体意識があって外的個の集団は見えない全体意識に繋がれた体のようなものと言える。従って現代人のように個としての自我が確立してはおらず、全体意識としての民族霊などが背後にあり、それぞれの個に直接的に働きかける意識を啓示として受け取った。たとえて言うなら私と言う一つの個を見るとき、指示命令を頭が出すとして、手足は頭の指示命令を鑑みることなく直接的に受け取り、いわば反射的に行動していると言うことだ。それと同じように古代人は全体意識にとって反射的な手足の在り様だと言える。ただ手足が分化しているというだけのことだ。現代人は今の個性真理体としての自我の在り様を発達させる為に、必然的に直接的な霊性をフィルターにかけるようになった。もし現代人に直接的な啓示が下るとするなら、ある意味その人は自我を塞いでしまうという精神を病んだ状態にある。霊界との直接関与を清平だけに特化されたのも霊界啓示や霊的癒しが非常に危険であるし混乱しやすいからだろう。でも現代人に於いても、憑依状態にならずに何らかの形で霊界からの情報を健全な形で得なければならない。それは気付きという形を取って自我に働きかけてくる。古代の啓示の現代的な現れ方が気付きとなった。気付きを啓示という言葉に置き換えられて使うならそれは健全であるけれど、しかし自我の自由性を奪う形で強制的に指示命令が下されるのであれば、それはいかがわしいものでしかない。私が使命を受けた身であるなら直接的に啓示が現れて当然だろうと、待ち続けていた愚かな若き日々が思い出されるが、気付きこそが自我を備えた個性真理体への霊界の声だろう。その気付きをどういう風に捉え、どういう風にイメージし、そしてどういう風に地上に落とし込めることができるか、悟性という発達させてきた魂をして自由性の中で膨らませながら愛の地上化、実体化を為していく。

2011年4月2日土曜日

今日の想い 284

見通しのいいハイウェイをどこまでも走っていく。遥か向こうに雨雲が見えていて、ハイウェイはそこに向けてまっしぐらだ。近付くにつれて雨雲はますます巨大になり、覆われた下の方は灰色に霞んでいて何も見えない。更に近付いていくと、黒い雨雲から何本もの筋糸を降ろしたようになっている。その筋糸が纏まって、巨大な簾を引いて揺らすようにゆっくり揺れている。それを確認するとフロントガラスに大粒の雨玉が叩き付けられてきた。天のタライをひっくり返した様な土砂降り状態が直後に続き、前方はおろか一寸先も見えない。速度をしっかり抑えて注意深くハンドルを握っていると、そのうちに雨は止んできた。雨脚が来るのも早かったが逃げるのも早かった。こんな目まぐるしい展開がここのところ私の周囲でも発生している。思っても見なかった予期せぬ出来事が次から次えと起こってくる。店の問題が息つく暇もなく起これば、家庭の中でも口を開けて佇むしかないような出来事が生じる。その原因を突き止めたいと思っても、矢継ぎ早に起こる問題にそんな余裕もない。私個人に於いてそうで周囲がそうであるように、世界がそうだし日本に於いてもそうだし、言わずもがな教会内部に於いてもそうだ。ということは宇宙に於いても暴風雨圏にあると言うことだろう。この暴風雨圏はさながら現代の洪水審判だ。霊の洪水となって人類すべてを巻き込んでいる。この状態でひとつひとつの事柄を熟慮している暇はない。霊の洪水は悪霊の洪水でもあると同時に善霊の洪水でもある。善霊の影響を受けようとするなら、悪霊の惑わしに相対せずに善霊に相対する私となることだ。絶対信仰、絶対愛、絶対服従とひとつになる基準が今こそ必要とされる時はないだろう。負として受け取られるものには謙虚をもって、正として受け取られるものには感謝をもって、そして全ての栄光を御父母様にお返しする。それがこの暴風雨圏を泳ぎきる知恵だろう。