2011年4月20日水曜日

今日の想い 294

地上に於ける創造の最高傑作が人間の形姿だ。人間形姿を地上的な神の似姿として賛美したのがギリシャ文明だが、それ以前のどこか適当で滑稽な、象徴的描写を表わした遺跡に見る人間形姿に比べ、ギリシャ彫刻に見る人間形姿には、神話の神々が今にも動きそうな表し方をされている。人間の肉体から堕落した心魂を取り出したなら、肉体そのものは地上における神の宮と言える。ようするに私は神の宮の中に住んでいる。肉体に相応しくない心魂が宿り、自己中心主義の権化が肉体を思うままにしている。自分が住まう肉体のみならず他の心魂が住む他の肉体も思うままにし、即ち肉欲で自分の身体も他の身体も蹂躙している。この目は神様が見たいものを見る目であり、この耳は神様が聞きたいものを聞く耳であり、この手は神様が触れたいものに触れ創造したいものを創造する手だ。そこに気付こうとはせず堕落の心魂の思いのままに振舞えば、本来光り輝く身体はその光を失い動く屍になってしまう。内的霊的感性が鈍っていると分からないが、堕落的行動によって肉体が光を失い鈍化し、更に柔軟性を失い凝り固まる様相が伺える。人間形姿はそれ自体が美の頂点にある。彫刻や描写を通して人間形姿の線と面を美しいと感じる目は、神様が見たいものを見る目の要素に溢れているけれど、そこに肌の色合い、肌の柔らかさ暖かさが加えられ、更には動きや表情に表れる原罪的なものへの期待が見る者の目に混入されてくると、その目は多分に堕落した心魂の肉欲に毒されていく。私達は未だに内的霊的感性が鈍いから、見るな触れるな堕落するなと言われた言葉に従うのみで、大まかな憶測のままで行動しているけれど、霊的感性が冴えてくると心魂の動きや行動ひとつによって欠け落ちるものや、毒々しく流れ込むもの蝕むものを見るようになる。御父様が言われるように、愛し合ったならば、男性女性の部分、それ自体は同じだが、既に変わっている、堕落して変わったということを知らなければならないと、話されることも理解できる。人間形姿という透明な輪郭の内側に私という心魂が何を持ち込むかによって霊人体の様相は変わってくる。

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