2011年4月28日木曜日

今日の想い 298

何が善で何が悪かわかっていない。自分の良心に照らしてみて、これが正しいと思える道をさも前進しているように思っているけれども、本当は自分の良心さえもわかってはいない。御父様にどこまでも着いていくという気分だけで今のスタンスを取っているが、それさえも曖昧なものであることは御父様の前に出てみれば良くわかる。御父様から直接に受けて、それでも御父様の言葉通り、指示通りに動けない自分がいるなら、御父様にどこまでも従っていくという気分は絶対的な頼れるものではないということだ。どこまでも沈む孤島にしがみ付き、どこまでも今の安堵に執着し、真の愛の世界を標榜していると言いながら今の自分の世界から飛び出そうとはしてしない。天国に向かおうとする今の自分の世界が自分の天国であって、それは向かおうとする気分に留まっていたいだけなのであって、御父母様がおられる天国に決して入ろうとはしていない。イエス様に従う弟子達は、十字架につけられ復活されたイエス様の前に立ってその愛の前に屈服し、押さえがたい衝動が悔い改めと殉教への意志を差し出した。生きて地上におられる御父母様へ向かう愛の衝動を、私達のなかに本当に見ることができるだろうか。愛によって生まれ、愛によって育まれ、愛によって導かれ、愛によって歩んできた。それが今になって何が善で何が悪かという判断に意志を差し出すなら、私は善悪に身を委ね善悪で裁かれる。しかし愛すること愛の衝動に意志を差し出すなら、私は愛に身を委ね愛で護られる。愛は裁かない。どんなに怒髪天を突く様子であっても御父様の指示は愛に違いない。そこに御父様の愛を見るのでなければ受け取る意味はない。愛の言葉、愛の指示に飛び込んでいけない自分がいるという現実を重く受け止めなければならないだろう。そして兎に角、願いに応える一歩一歩を踏み出すことだ。それが御父様に対する私の愛だ。それがどんなに小さくとも、無と一とはサタンの側に立つか神様の側に立つかの天地の違いがある。どんなに小さな愛でも、それは今の私が差し出す100%の愛だ。

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