2011年4月16日土曜日

今日の想い 291

御父様の路程がどれほど多難であったか。御母様の路程がどれほど犠牲的生活であったか。私達が知らない、知ることを許されない悲痛な歩みが御父母様の笑顔の背後に隠されている。子供が小さいうちは、親の事情を知らずとも、抱かれてあやされていれば何の不信も覚えず親に全てをゆだねている。しかし成長して多感な時期に入ってくると、父と母の間のいろんな事情が気になるし、詮索し始めたりする。それはあら探しをしてケチをつけたいが為にそうするのではなく、愛ゆえに全てを知りたいし、全てを知って事情を共有したいという愛の衝動がそうさせる。何も知らず知ろうともせず、幼い子供のままでいて、永遠に親の愛の懐のなかでまどろんでいれればそれでいいと思えたとしても、親はそうは思わない。子供が成長して親を超え、注いだ以上の愛を子供から受けてみたいと思うのが親の情だ。私達は何も知らないまま、いや、知ろうともしないまま、御父様御父様と呼んでいればそれで良かった期間も確かにあった。それを幼子の信仰と呼べるのかどうかは分からないが、今の事情や環境のなかで、頑なに純粋であり続けようと外からの情報を内側に届けず考えようともせず、何も知らない風を装っていたとしても、確実に周りは混乱しその混乱に身を預けることになる。敢えて知ろうとせず、知っても軽く流して、そんなこともあるだろうと言うのであれば、そういう兄弟もいるにはいるが、私に言わせれば深い関心を持たずに浅い信仰、心情のままに留まろうとする、距離を置いて深く関わろうとしない、いてもいなくてもいい類に入る。多くの批判的サイトを見ながら、中には中傷誹謗だけを書き連ねているだけのサイトがある一方で、ここまで深く調べ深く考えているのかと、周りの食口以上に御父母様に関心を持っているサイトもある。それは元と名のつく離れた兄弟によるものが多いが、論理の中で突き詰めればそういう結果を取らざるを得ないのだろうが、更に踏み込んで論理の境界を超え、心情世界即ち霊界に入っていくことが出来れば御父様に対する態度は180度変わるだろう。迫害の先鋒に立っていたパウロが回心したように、御父様に対する現代のパウロは反対派の中に何人もいるだろう。もう既に彼らは気付いていてタイミングを計っているのかも知れないが、御父様を堕落世界の論理や感情で常識的に測ることは出来ない。御父様はほんものを探しておられる。そしてほんものでしか御父様については来れないし生き残れないし、ほんものでしか創造権、主管権を相続できないだろう。全ての霊界の境界が撤廃されたように、教会のなかにいれば全てが護られ、教会の括りによってだけ救われる訳ではない。ただの信仰的雰囲気で御父様を慕い侍っている風を装うのではなく、御父母様の心情圏を訪ねていって、そこから起こる押さえ切れない衝動で真に御父母様を慕い侍る者達こそほんものだろう。

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