2011年4月26日火曜日

今日の想い 296

イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れ、ゲッセマネで最後の祈りをされる。魂が悲しみのあまり死ぬほどだと言われながら、留まって目を覚ましているように彼らに伝えられた。切実な祈りを終えて来てみると彼らは眠っていたので、誘惑に陥らないように目をさまして祈っているように伝えられた。また離れて行って同じ言葉で祈られ、またごらんになるとまだ眠っていた。三度目に来てもやはり眠っていた。そして人の子は罪人らの手に渡される時が来たとイエス様一人で行かれることを決意された。最も弟子達を必要とされるときに弟子達は眠っていた。何度喚起されてもやはり眠っていた。しかし当時の弟子達を私達は非難できない。私達も同じように、御父様が直接的な指示を出されても私達は御父様の願いに呼応できずにいる。何だかんだ理由を付けて、そしてその内に、受け止める風は装っても出来ない事やれない事に慣れてしまっている。私達も眠ったままなのだ。重大な摂理毎に何度喚起されても、やはり眠ったままなのだ。イエス様の弟子達は心は熱していたが肉体が弱かった。事実眠りに勝てず、眠りという無意識圏に連れて行かれてしまった。しかし私達が彼らより劣るのは、私達は意識がありながら眠っているということだ。眠らされているのではなく、眠っている。自分で勝手な理由や都合を付けて行動できない状況を作っている。言い訳ばかりが頭の中をグルグル回転している。御父様は、百人兄弟がいれば百通りの言い訳を聞かされなければならないだろう。千人いれば千通りの言い訳が、ベットリした湿気のように纏わり着いてくる。私は御父様に侍る存在ではなく、言い訳だらけの邪魔にしかならない負担の存在になっていないだろうか。やることはやらずに貰うことだけが私の在り様なら、貰い受けてもその価値を見出せずに殻だけを有難そうに受け取ってその本質は私の体を素通りさせてしまう。苦労し精誠を供えることから逃げるなら、戴いた祝福にしろ解怨の恩恵にしろその本質からますます遠ざかっている。自ら進みでて、苦労の道をわざわざ選んで入っていくときにこそ、その本質への鍵は開く。いろんな苦労を味わい乗り越えながら、精誠を供えながら、実は究極の祝福の本質を受け取る為に、迷宮の隠された道を見出し閉ざされた門の鍵をひとつひとつ開けていくRPGをしているようなものだ。天地開闢という言葉は、私に於いては深い眠りからの目覚めを意味している。

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