2011年4月23日土曜日
今日の想い 295
胎児は十月十日母体の中で過ごして地上世界に誕生する。母体の中では羊水に満たされ、羊水の中に浮く形で胎児は成長していく。地上生活を終えて霊界への境域を越えると、霊人体は愛に満たされた霊界を次元を越えて飛び回りながら活動する。胎児は用水の中に浮き、霊人体は愛の中に浮いている。しかし地上生活の肉体は大気の底で重く沈んでいる。どうして地上生活だけが大気の中に浮くことが出来ずにいるのか。そんな疑問を持つこと事態おかしいと思われるけれど、ここまで密な重い肉体様相になった背景には堕落的なものが関与していると私には思える。御父様が人間の体温上昇について話されたことに対して、どういう我々の理解を望んでいるのか詳細は掴めないにしても、その部分にしろ体全体にしろ温度上昇を受け入れる為には、今の密な体細胞の在り様では困難だろう。分子間の希薄化が必然として要求される。希薄化が可能な体は浮くことも出来るだろうし光ることも出来る(ような気がする)。思考は頭で行うものであると当然の様に思っているけれど、実は他の器官も思考する。手だって思考している。すし屋だからすし職人の話をするが、ある程度の訓練をすれば感覚でシャリの重さをを均等に握れるし、すしネタの切りつけだってコンマグラムまで合わせることができる。そう言う場合、手が思考した結果を熟練の仕事に見ることができる。頭でどんなに思考しても結ばない結果を熟練の仕事に見ることができる。手が思考するとき、手は分子間が緩み希薄化している。地上生活に限って人間が大気の中に浮かないと言ったけれども、器官によっては浮いた状態にある器官もある。特に思考器官である脳は脳脊髄液という液体の中で浮いた状態にある。この浮いた状態が脳の活動を活発にしている。魂の活動である思考を通して人間は高次の霊的認識への道を、そしてイエス様がもたらした霊的救いの認識もこの思考を通して為されてきた。さらに私達は悟性の発達したこの思考を通してみ言葉を認識している。思考をますます柔軟にし希薄化させながら更なる霊的認識に至って行くことができる。御父様のみ言葉を理解しようとするならそれが大切で、加減乗除では解けない御父様のみ言葉を理解不能と結論付ければ、堕落の地上的な重い質量の中に閉じ込められたままだ。再臨のメシヤは雲に乗ってこられるという霊視された聖書の言葉は、地上的意味で捉えれば間違いであるけれども、霊的意味で捉えるなら、思考を柔軟にし希薄化させて霊的高みの位置で御父様に会うことができると言う意味で荒唐無稽な言葉ではない。
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