2011年4月3日日曜日

啓示について

”私は天の啓示、霊界の啓示を受けた”、と誰かが言ったとするなら、それは非常に注意深く接するべきで、啓示がどういう方法で届けられたかをよくよく見なければ、その言葉や指示を鵜呑みにすべきではない。古代人の意識の在り様は簡単に言えばミツバチや蟻と同じような在り様であって、一つの全体意識があって外的個の集団は見えない全体意識に繋がれた体のようなものと言える。従って現代人のように個としての自我が確立してはおらず、全体意識としての民族霊などが背後にあり、それぞれの個に直接的に働きかける意識を啓示として受け取った。たとえて言うなら私と言う一つの個を見るとき、指示命令を頭が出すとして、手足は頭の指示命令を鑑みることなく直接的に受け取り、いわば反射的に行動していると言うことだ。それと同じように古代人は全体意識にとって反射的な手足の在り様だと言える。ただ手足が分化しているというだけのことだ。現代人は今の個性真理体としての自我の在り様を発達させる為に、必然的に直接的な霊性をフィルターにかけるようになった。もし現代人に直接的な啓示が下るとするなら、ある意味その人は自我を塞いでしまうという精神を病んだ状態にある。霊界との直接関与を清平だけに特化されたのも霊界啓示や霊的癒しが非常に危険であるし混乱しやすいからだろう。でも現代人に於いても、憑依状態にならずに何らかの形で霊界からの情報を健全な形で得なければならない。それは気付きという形を取って自我に働きかけてくる。古代の啓示の現代的な現れ方が気付きとなった。気付きを啓示という言葉に置き換えられて使うならそれは健全であるけれど、しかし自我の自由性を奪う形で強制的に指示命令が下されるのであれば、それはいかがわしいものでしかない。私が使命を受けた身であるなら直接的に啓示が現れて当然だろうと、待ち続けていた愚かな若き日々が思い出されるが、気付きこそが自我を備えた個性真理体への霊界の声だろう。その気付きをどういう風に捉え、どういう風にイメージし、そしてどういう風に地上に落とし込めることができるか、悟性という発達させてきた魂をして自由性の中で膨らませながら愛の地上化、実体化を為していく。

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