2011年4月6日水曜日

今日の想い 286

映画やドラマを見て感動を覚えても、それは非現実時空間に過ぎない。では生きて生活している現実空間に於いて、スクリーンの中を超えるどれだけの心情的な時を刻んでいるだろうか。統一食口であるなら、為に行き犠牲となる生を標榜しながら、心情的影響を周囲に与えているかどうかを自分に問う必要がある。み言葉を知らないこの世の人達を感動させたことがあるだろうか。犠牲的愛に生きるなら生活自体が彼らに感動を与えこそすれ、実入りが悪くて政府に生活保護を要求するような恥を曝すことはないだろう。目の前の人に要求しているのではなく国が出すものだから貰って当然で、何の非難されることもないと嘯いている。そう言う者に限って献金袋が回ってきても、小銭を入れて満足している。生活が主体で心情は二の次なのだ。体が主体で心は申し訳なさそうに体に隠れている。み言葉の本質を受け取って、為に生きる犠牲的歩みを信条としているなら、見る者が見るなら御父様の姿を彼に見て涙を禁じ得ないだろう。マイナスの位置にへりくだって行けば行くほど、宇宙的調整が働いてよりプラスを呼び寄せる。そうして用意された心ある人々は集まらざるを得なくなる。祝福家庭として御父母様の代身として歩んでいるなら、せめてみ言葉の実体に成り得ていない自分を申し訳なく思うべきで、三度三度の食事をするのも、鼾をかいて寝ることも憚られて当然なのだ。あれだけの震災を被りながら、略奪暴行も起こらず統制が維持されている日本を各国は賛美しているけれど、日本人が日本の民度を越えて見上げるものを、統一食口は彼らに提示して御父様を証ししてきただろうか。私達の根性が彼ら日本人に取っては御父様の姿であり、私達を見て御父様を判断している。天宙復帰の為に国さえも売ると言える人間は、誰よりも国を愛している者であればこそ言い得る権利があるのであって、国も愛せない人間が天宙復帰などと声高に叫ぶべきではないだろう。それは唯の売国奴だと言われても返す言葉はない。私は愚かにも四十年近く経ってやっとそれに気付き始めた。私は明らかに御父様を受け入れない日本の責任を負っている。日本食口の讒訴も受けるだろうけれど、日本の民族霊の讒訴も受ける。世界会長が義援金を用意して下さって、日本への愛を示して下さったことは本当に有難かった。そして日本の責任者が、何が起こるか知らない日本から逃れようとする浮き足立った者達をたしなめられた事を聞いたとき、本物の成約聖徒が日本に立っていることを心強く思った。

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