2011年4月14日木曜日

今日の想い 290

ネット社会はありとあらゆる情報が手に入る。知らなくてもいい、或いは知らないほうがいい情報も入ってくる。教会の情報、真の家庭の情報、自分の手に届くところにあれば覗いて見たいし知りたいと思うのは当然であって、見るな聞くなと釘をさされれば余計に鼻を突っ込みたくなるだろう。さあ、得た情報に対して私の判断の基準をどこに置くのか、それが私の責任において要求されることだ。疑いようの無い真実が私に差し出され、奇麗事では済まされない御父様や御家庭の内容を提示されて、私はこれを飲み込めるだろうかと食口の全ては自分に問うことになる。この世で培ってきた常識や道徳から逸脱した一つ一つの事柄は、常識人であればあるほど受け入れ難く、人によっては肥溜めから糞を取り出して口にしろと言われるような試練を味わうことになる。確かにある期間、情報は統制されていて、個人の信仰に余計な波風を立てずにある意味天に護られて信仰生活を歩む期間はあった。そして世界が急激にネット社会に様変わりしてきたことで、良くも悪くもあらゆる情報にふりまわされる時代になってきた。防波堤を大きく超えた情報の津波に翻弄されながら、全体の垣根を越えて襲い掛かる非常識な真実を、飲み込めるのか飲み込めないのか、消化できるのか出来ないのか、今個人の次元にまで下ろされて試練されている。自分の中にあるあらゆる罪や堕落性が思考や感情の根底にも巣食っている事実を無視して、自分の判断や好き嫌いの気分に委ねてしまえば、その時点で信仰は絶たれるかもしれない。しかし私達が戴いた祝福は、堕落的魂の奥の根底に植えつけられた霊の本質であって、よって魂活動をも超えうるものが自我に波打っている。それが祝福を戴いた統一食口の天宙的現実だ。私達はその意味でこの世的現実の常識を超え道徳を超えている。それはけっして常識外れの人間になれと言っているのではなく、常識や道徳で采配すべき事柄もあるにはあるけれども、御父母様の価値を常識と道徳の秤で判断することはできない。泥沼のなかで咲く蓮の花が、泥沼と何の関わりも無く命を繋ぎ花を咲かせる訳ではない。泥沼の中に根を張り、泥沼の養分を吸いながら、しかし同化して染まるのではなく確実に蓮の種族としての精神を宿していて、それが混じりの無い真っ白な尊い花を咲かせている。御父母様と御家庭の歩みもそのようであって、世間がどう見ようとも天の血統が脈打っているのであり、サタンと関係のない真っ白な精神として地上に咲かれる。特にラスベガスを中心的摂理として根を張られる御父様を見ていると、泥沼に咲く蓮の花が私のイメージの中に想起されてくる。

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