2011年5月21日土曜日

卒業の日

三時から始まるというので少し余裕を見てアパートを出たが、案の定週末の環状線は混んでいて、更に学校に向かう高速の出口では青になっても車二、三台通過するのがやっとという状況で、構内のパーキング場に着いたときは既に始まる間際だった。会場から随分離れたところに回されて車を駐車すると、時間を気にしながらも妻と娘を急かして足早に会場に向かった。会場はアリーナなので観覧席に辿り着く長い階段を上がっていかなければならない。貧血の妻は足が上がらないようで後から押し寄せてくる足早な群れに急かされ障害になっている。それでも三十分も遅れて辿り着いたわりには今始まろうとしている時で、アメリカンタイムに救われた格好になった。背面にあたる正面一部の観覧席を除いて一周、下段から最上段までほぼ埋め尽くされている。ステージを正面に目にできるけれど位置的には最も遠い席に腰を下ろさざるを得なかったが、まあ何とか間に合ったということで良しとした。初めて大学の卒業式を目にする緊張もあって息子の晴れの姿を見ようと意気込んできたが、周囲を見る限り厳かな雰囲気とは程遠かった。みんな好き勝手に出入りして煩わしいし、スポーツ会場のせいなのかゲームでも見るような感覚で売店で売られているドッグやポテトフライをつまみながら談笑している。それでもスピーチが終わると惜しみない拍手と歓声で場内がどよめくのは何ともアメリカらしい。終始ざわついてはいたが、一瞬静まり返る時があった。皆が起立して国歌を清聴する時だ。静寂の中、卒業生の代表らしき女性がろうろうと国歌を歌い上げると会場は更に盛り上がった。学長なのか教授なのかわからないが祝辞が二、三述べられた後、卒業生が列を為してステージに上がり、頂くものを頂くとお辞儀をするでもなく足を止めるでもなくそのまま席に戻っていった。数百人の証書の授与も流れ作業で、これもアメリカ的といえばアメリカ的だ。その間歓声は鳴り止まず、口笛はおろかサッカー観戦のブブゼラまで持ち出して賑やかす始末で、なんとも感慨に耽る間もなく騒々しさのうちに式は終わってしまった。これがいいとか悪いとかという問題ではないのだろうが、私の見る限りでは卒業して社会人へという責任や重さを自覚するようなものではなかった。記念写真も早々に息子が使っていた寮の部屋を引き払い、お祝いを含めて家族で外食し、その後息子はパーティーに行くという。あまりいい気はしなかったがOKを出して息子を見送った。こちらでは学校を出るまでは親の責任で、後は子供の自由であるし子供の責任でもある。経済的自立は勿論のこと、人生観も何もかも本人任せで基本的に親がどうこうすることはない。親と私は違うというのが根底にあるから個人的であり家庭は疎遠になる。少なからず私の子供もそういったアメリカ的影響を受けている。こちらの普通の親は卒業させると一安心なのだろうが、私はこれからいよいよ安心できない日々を送ることになる。とにかく卒業だ。息子は一体何を卒業したと思っているのだろう。学業からの卒業、親のスネカジリからの卒業、親の束縛からの卒業、或いは甘えからの卒業、それとも過去の自分からの卒業。できれば社会に揉まれて悩んでほしい。祝福家庭の素晴らしさを、御父様とみ言葉の素晴らしさを、自分のなかに見出せるほどに悩んでほしい。そして自分の故郷、自分の魂の故郷は自分の家庭だとわかってほしい。寮から持ち帰った息子の荷物が、狭いアパートの部屋に足場もなく置かれているのを眺めながら、取り敢えずはこれも含めて内外のことを整理することだと思った。

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