2011年5月25日水曜日

自我意識から新たな意識へ

日の出を迎えながら、今日という一日が差し出す体験という名の贈り物への期待感に胸を膨らます。頬を撫でる心地よいそよ風も、朝日に踊る木々の緑も、小鳥たちの見事なさえずりも、意識の光を当てて堰き止めることも無く遣り過ごすなら、私はそれらに対しては死んだ者だということだ。受け止めなければ無いに等しい。受け止めて魂の反応を見るのでなければ、私の魂の活動は止まったままだと言うことになる。昨日と今日の違いを感情体験の違いとして内面に刻まれ、昨日には昨日の感情体験があり、今日には今日の感情体験としてはっきりと存在しているだろうか。こよみの数値の移動を確認するのみで、漠然と毎日を遣り過ごすなら、生きているといいながら実は死んでいる。死の門をくぐらずとも霊的には死んだままでいる。ぬるま湯につかったままで私の意識が骨抜きにされるくらいなら、煮え湯を浴びて私の意識が叩き起こされる方がいい。主がモーセに命じられたことは、私であるという方が私をあなた達に遣わされたと民に語ることだった。私という自我意識の目覚めを喚起したことは歴史的なことだった。以前には地上に無かったイエス様が流してくださった愛を、人間が理解することができ受け止めることができる為には、自我意識の目覚め度合いが愛の理解度の根底にある。愛は対象がいて初めて流れるもので、対象の存在を認識するためには自我意識が目覚めていなければならず、自分のものだと認識しないものを相手に与えても愛は関与しない。そして御父様は私達の自我意識を更なる高次の意識へと意識ステージを高めて下さる。楽園から更に楽しい天国へと言う様な幻想ではなく、自我の担い手になった人間は後天時代において神霊を戴く新たな自我を担おうとしている。神人愛一体理想としての私がそれだ。多くを与えようとするなら多くを得なければならないし、多くを得ようとするならしっかりと意識する魂を働かせて受け取るものを多くすべきだ。私達統一食口はその可能性を十分備えている。今日という一日は受け取るもので満ち満ちている。喜怒哀楽に満ちた生きた感情体験が今日には今日の仕方で贈られる。御父様が語られるように、一株の草を見ても涙することができる私になれるほどに、神様が味わってこられた心情を私の心情として感情体験できる時代圏に入っている。

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