2011年5月23日月曜日

今日の想い 311

イエス様以前には無く、これはイエス様が地上にもたらした愛であり新しい意識だと、溜息をつくほどに納得させられる聖句として、ヨハネ8:7がある。律法によるなら、姦淫の罪を犯したものは石打の刑に処せられる。姦通の現場を押さえられた女を民衆に教えているイエス様の前に引きずり出して、パリサイ人や律法学者がイエス様にこの女をどうすべきかを問い詰めたときにイエス様が口にされた言葉と行動がこの聖句だ。黙って地面に何か書いておられたイエス様は、あなたたちのなかで罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げよと口を開かれた。律法に委ねていた裁きをそれぞれの良心に委ねるように促された。外からの裁きを内なる原則(蕩減法)に裁かせたと言ってもいいかも知れない。良心に問えば自分が罪びとであることを認め、その場を去らざるを得なかった。一人去り、二人去り、そしてイエス様とその女だけが残った。だれもあなたを罪に定めなかったのかとの問いに、主よ誰もと女は応えるとイエス様は、私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは罪を犯してはならない。と女に告げられた。周りの者にそれぞれの良心に委ねるように仕向けられたと同じように、女に対してイエス様御自身も罪に定めず女の良心に委ねられた。イエス様の前に連れ出された女がどんな状態だったかは描かれていない。おそらく恐れおののいていただけか、それとも開き直っていただけかだろう。二人だけが残ってイエス様に対した女はそこで始めて良心の声を聞く。身の危険を脱して大喜びのうちにその場を逃れたのではなく、重い良心の存在があることに目が開いて意識し、その蕩減を抱えることになる。罪を犯してはならないと言う言葉はイエス様の命令の言葉ではなく、良心の声に従わなければ良心があなたを裁くと女に念を押された、女への新しい意識の喚起と愛の言葉だ。私達食口の中に、イエス様がもたらされた新しい意識がどれほど備わり、原理やみ言葉を律法的な意味での裁きや善悪の判断に宛がうことに捕らわれ行動することなく、み言葉の力が私の良心のなかに浸透して、或いは良心を喚起して、良心の声、良心の衝動として行動できる私達であるべきだ。それがどんなにみ言葉を持ち出して他を判断するとしても、どんな人であっても他人の裁き手になるべきではない。裁きはその人の良心に委ねられている。

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