2011年5月1日日曜日
今日の想い 301
私達は御父母様の息子であり、娘だ。そして子供に取って親のいるところが故郷であり天国に違いない。だから御父母様が居られるところが天国であり、既に私達はその天国にいる。心から御父様と呼び、御母様と呼べる私でありさえすれば、御父母様の息子であり娘であることは疑いようが無い。それは誰であってもどんな存在であっても、地上であっても天上であっても、私が息子であることは否定されるものではない。何処の誰がお前のいるところは地獄だと言い張ったとしても、御父様御母様と呼ぶことができ、それに応えられて御父母様が実体でなくても想いとしてでも何かの形で訪ねてくださるところであれば、そこも天国に違いない。御父様が地獄の場に臨まれたとしても、御父様が行かれるのであれば地獄であっても天国だ。確かに未だ心を煩わす多くのことが周りにはひしめいている。心配もするし悩みもする。しかしだからと言ってこの場が天国ではないとは誰も言えない。問題のひとつも起こらなくて、ただの安らぎのなかで漂い続けるとするなら、そんな退屈な人生それこそ地獄だろう。遊園地のジェットコースターに好んで乗ってスリルを味わうように、人生という喜怒哀楽のジェットコースターに乗るために今生を生きている。石橋を叩いてでも渡らない自分ですら、それなりの紆余曲折の変化の中で神様の愛を実感したいという抑え切れない衝動でこの地上にやってきた。つくづく御父母様に出会う為に幾千年の満を持してやってきたのだなあ、という実感が心のどこかにある。多くの食口はその思いを否定しないだろう。人類始祖以来、延々と続いてきた血統の中でどれだけ御父母様を待ち焦がれたことか。その歴史的想いが私の血の中に流れている。御父母様に出会えたことで歴史的血統的仕事を為し終えたと安堵するのではなく、出会いが唯のすれ違いにならずに父子の因縁、親子の因縁として離れるに離れられない出会いとすべきであり、出会いを骨髄にまで刻印する為には、失礼な言い回しになるけれどある意味、御父母様を最大限利用する私達となるべきだ。御父母様の価値も意味も知らない者からすれば、私達は利用されているように見えるのかも知れないが、実のところ逆であって、私達が御父母様を利用している。息子だ娘だと押しかけていけば御父母様はその通りだと認めざるを得ないし、認めるどころか私達を愛さざるを得ない御父母様なのだ。
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