2011年5月29日日曜日

今日の想い 313

私達の生は御父母様の中にある。御父母様の愛の中で私達の生は繰り広げられている。生きているという中で御父様に出会ったと言うのは、地上的な説明では理屈が通るのかも知れないが、天的な意味での出会いの本質は、出会いの一点で私の生と御父母様の懐(ふところ)が交差し、入れ替わっている。ちょうど死の門を通って、私の内面が外界としての霊界の現実になるように、内が外になり外が内になる。御父母様の無限なる愛の懐が私の生を包み込んでいる。孫悟空が空の果てまで行って見つけた柱に、自分の名前を記したことを得意げに話したはいいが、柱はお釈迦様の指だったという話がある。所詮お釈迦様の手のひらの中で遊ばされていたということだ。私がどれほど教会を嫌い教会から離れたとしても、この世の堕落的事柄に没頭して縁を切るとしても、思い浮かぶあらゆる悪事に手を染めるとしても、それでも御父様を否定することはできない。私の体の一部が病に冒されるなら、その部分を必死で直そうとするだろうし、指に小さなトゲが刺さっただけでも心安らかではおられない。病んだところを切って捨てればそれで済むような話ではない。それを思えば私の痛みが御父母様の痛みであるし、私だけでなく全ての人類、天宙全てが御父様の体のようなもので、存在全ての痛みを抱えざるを得ない。私の生は私の自由意志のままに反乱を起こせるだろうし、み旨に反逆し得るだろうが、そうなれば御父様の痛みは私の生ゆえにますますその度合いを増すことは明らかだ。だからといって決して私を捨て去ることはできない御父様だ。私は既に御父様の一部になってしまっている。犯した罪の大きさに自分を許すことができず、帰って来れない兄弟がいる。私のように何の実績も無く、できるだけ目立たないように影を潜める兄弟がいる。だけれども私は敢えて言う。抱えた罪の大きさが御父様の痛みの大きさとなって、結果的に御父様の関心事であり心配事となっている。供える何の実績もない心苦しいこの想いが、ますます御父様の心情を結果的に引き付けている。栄光の位置で身を誇る者達の陰で、挫折の位置で身を投げ打ってでも差し出そうとする者達が支えている。私は私の位置で、私の接し方で御父様とひとつになる。私も私の生き様も、御父母様の懐の中にある。

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