2011年5月11日水曜日

今日の想い 305

私という存在を生きている。しかし私という存在を生きているにもかかわらず、私という存在は不可解極まりない。眺める私の体は宇宙の叡智のかたまりに違いないけれど、この体の中にいる私は不完全であり不可解そのものだ。次から次へと浮いては消え消えては浮く低次元の衝動、整理されない思念、喜怒哀楽のはっきりしない感情、それらの捉えようのない内的活動の中に自分らしいものをひたすら探そうとするけれど、見えない背後に操られたものばかりで、そこに自分はない。うつろい漂う私ではなく、祝福を戴いてしっかりと根を下ろした私がいるはずだが、時として迷い込み見届けることができずにいる。外界への働きかけを止め、内に引き篭もる怠惰な無気力に堕とされたままでは事実上私は死んでいる。それは俗に言う基準が下がった状態だが、本来そこでこそ意志を働かすべきだ。停止状態からギアを入れようとすれば、相当の意志力が要求されるが、信仰生活をしているのであればどんな些細な事柄であっても何らかの条件は供え続けている。それは食前の短いお祈りかも知れないし、パラパラとめくるだけのみ言葉への接触かも知れない。最低限の信仰的行動があるなら完全に止まりきることは無いのかも知れないが、いつまでもそんな状態では、明日を切り開いていく神の意志で時間は瞬時毎に作られながらも、それに見合う発展的な事柄を私が供えない限りは、時間を生きる存在としては相応しくないだろう。私という存在を生かし続けるために莫大なエネルギーが費やされている事実を踏まえれば、不完全であり不可解な私はあまりにも負債が大きすぎる。しかし縮こまる私に対しての内面の奥からの声は、私を子だと言って譲らない御父様が宇宙の莫大なエネルギーを費やすに足る存在だと言い張っておられる。今日には今日の、真の父母に繋がる真の私への開拓が自分には課せられていると思うべきだ。内面に於いて真の父母を見失わない為に訓読会がある。み言葉の灯明を明るく照らし、決して真の父母を見失わず迷うべきではない。今までは御父様が、御父様の位置から、いろんな誘惑の掛け声に立ち止まったり首を突っ込んだりして彷徨い歩いていた私をわざわざ訪ねて下さったりもしたが、これからは私が、私の意志をはっきり働かせて、真の父母様にしっかり付いて行くべきだ。

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