2011年5月27日金曜日
今日の想い 312
心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである。マタイ5:3 この聖句の心の貧しい人とは誰か。どういった人を指して心が貧しい人と言えるか。そして統一食口は心が貧しい人達だと言えるだろうか。経済的な意味で貧しいと、自分が当てはまると思うのは、生活苦を通して富への羨望が自分の中にあることを貧しいと言う。周りから見て生活が大変そうで貧しそうだと思っても、本人がそれで飽き足りているならそれは貧しいとは言えない。そのように心が満たされ満足しているなら心が貧しい人とは言えない。食口の一般的感情からして、どんな地上の真理をも越える真理を幸いにも受け取っているし、祝福も受け先祖も解怨し祝福もさせているので、自分に不安はなくそれなりに心は満たされていると思っている。でもそういった状態は心が貧しい人の部類には入らないだろう。既に足りていると思っている。求めよ、さらば与えられんとあるように、足りないと思っているから求めるのであって、足りていると納得すればそれ以上のものは求めないし入ってはこない。私は祝福の価値を本当に理解し、私の中で祝福の木が育っているのを実感として受け取っているかと問わなければならない。先祖解怨、先祖祝福の意味を本当に理解し、開放された彼らの喜びや彼らの協助を実感しているかと問わなければならない。私達は本当は足りた感情で満たされるのではなく、受け取れずに焦る思いで更に求めなければならない。事実、恵みの大半を地に落としたままであって受け取ってはいない。祝福の恩恵の全てを受け取ったのではなく、受け取ったことにした。み言葉を理解し受肉したのではなく、理解したことにした。そしてそれで満足していてそれ以上望もうとは思っていない。心の貧しい人とは、心霊における物乞いであり貪欲なまでの救いや復活の実感に対するこだわりだ。私達のどこかに目に見えないものは実感できないという観念がある。霊界に行ったときには実感できるのだろうが地上では実感できないし、いつまでも実感できないものを信じ続けることが絶対信仰だと思っている。甚だしくは、祝福はこの世的な意味での地上平和や内面の安らぎをもたらす為の方便に近いとさえ思っている。祝福を受けた、解怨した、御父様の指示に従った、そういったことにして自分で結論付けて変に落ち着き払っているのは統一食口とはいえない。貪欲なまでのみ言葉への理解、御父様に対する研究、本質への追及、サタンや神霊の見極め、自己の純化、そういった溶岩が噴出するような内面の追求心を抱えなければ霊的に生きているとはいえない。
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