2011年5月22日日曜日

霊肉の橋渡しとしての魂体を考えてみる

人は、知情意の魂が体験して認識されたものをその人が認識した通りに霊的素材として蓄えている。地上界に於いて熱や空気や水や土が地上の素材としてあるように、霊的素材としての熱や空気や水や土がある。それらの素材は私の内面に熱素材として受け取るものや、空気素材や水素材や土素材として受け取るものがあり、主に知的活動の魂は霊的空気、霊的光の素材の蓄えに関わり、情的活動の魂は霊的水、霊的振動や音の素材の蓄えに関わり、意志活動の魂は霊的土、霊的数理の素材の蓄えに関わっている(この部分はよく見えず、こじ付けかも知れません)。真理を受け取れば霊的に呼吸できるし真理は霊の光としての側面もある。神様の心情を受け取れば霊的には水を得たようであり心情はメロディーやリズムの側面もある。み旨に関与すれば霊的に足を地に付けみ旨に関与することで霊的に創造と天国建設を為している。そしてそれは数理の側面がなければできないことだ。地上生活で内面に蓄えた素材は、死の門を潜れば私の内面が外面になり、そして受け取って蓄えたそれらの素材を集めて作られた霊的感覚組織が霊界認識をなりたたせる。私達が生きて地上界を認識できるのは、光の素材を受け取った光の組織としての目があるからだし、目は光から作られている。音の素材を受け取った音の組織としての耳があるからだし、耳の機能は音で作られている。そういったように人間の全ての感覚組織は外界に存在する素材で作られていて、光の王子としての目であり、音の王子としての耳だ。熱や空気や水や土を治める王子が人間の本来の位置だったのにもかかわらず、堕落によって治める位置には立っていない。目が目としての本当の役割をするなら受け取る感覚の背後にある霊的本質を見抜き、私の内面への関連性や共鳴するものを受け取り、よって感覚は今の唯物的な死んだ感覚ではなく生きた感覚になる。私の堕落的なものを清算し、心と体がひとつになるなら、私は生きた感覚の中で暮らす個体的地上天国だ。

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